由緒・神宮の紹介

       御祭神 御 由緒 朝鮮出兵 景 勝公・兼続公との縁 戊辰戦争と「道の記」 赤 崩れ石の常夜灯

御祭神

天照皇大神 あまてらすすめおおみかみ
日神つまり太陽をつかさどる神で、古来御祖神として人々の崇敬あつい神様です。 また,農耕の神でもあります。 当社は,伊勢神宮より謙信公が御分霊を賜り建立されたのがはじまりとされております。
手力男命  たぢからおのみこと
戸隠大神ともいわれます。“天の岩戸”神話で知られる剛力神で、長野県の戸隠神社が有名です。
松尾大神  まつおのおおかみ
大山咋神(おおやまぐいのかみ)ともいわれます。古来より醸造祖神として、酒造、味噌、醤油、等の関係者の崇敬 を集める神様です。京都の松尾大社が有名です。

御由緒

 今からおよそ450年前、上杉謙信公が新潟県糸魚川の地に家臣藏田紀伊守に命じて伊勢神宮の御分霊を頂き、遷座されたのがはじまりといわれて います。
 その後、景勝公の代に会津に移封され、関ケ原の戦いの後1600年に現在の米沢に移封されるに従い御社を遷座し、米沢城巽の方、現在の地に鎮座 されました。以来、上杉歴代藩主をはじめ、家臣、領民の信仰を集めてまいりました。また、伊勢の遥拝所として代々の藩主の信仰厚く、藩政時代は、 藩内寺社中筆頭の社領・禄高を賜っておりました。
 明治13年からは、郷社となり、多くの人々の信仰を集めてまいりました。大正8年の米沢大火で社殿全てを焼失しましたが、翌9年には本殿が建立 され、昭和4年には東町の小嶋彌左衛門氏の寄進により拝殿が建立されました。

朝鮮出兵

 豊臣秀吉が、朝鮮にたいして、「文禄の役・慶長の役」と二回にわたり、出兵したことはあまりにも有 名ですが、その際、上杉景勝軍も出兵しております。そして、その軍団の中に当神宮の神官藏田又五郎も随行いたしました。朝鮮に渡る船団の船頭に立 ち、海上にて武運長久と、船団の無事渡海を御祈祷したという記録が残っております。その際、景勝公より、神官の身ながら武士の志を持って朝鮮まで 随行したことに対して褒賞を賜ったと記録に記されています。
拝 殿にかかげられている奉納絵馬。文禄慶長の役の際の故事を描いたもの。

景勝公・兼続公との縁(『天 地人』にまつわる旧跡)

 平成21年NHKで放送予定の大河ドラマ『天地人』。主人公の直江兼続公、上杉景勝公と当神宮は先の朝鮮出兵以外にも縁があります。
 景勝公が米沢に入部し、兼続公と米沢城を築城していく中で、城下の重要拠点として三の丸巽の方(東南)に守護神として当神宮などを配置されたと いわれています。巽の方角は信夫郡(福島)や桧原街道の交わる交通の要所でした。また、当神宮のすぐ近くには兼続公の崇敬厚かった『愛染明王』が 祭られています。
 さらに、当神宮のすぐ西にある、『南部公園』には小高い築山がありますが、実は築山ではなく、三の丸の土手の一部が残ったものです。ちょうど、 三の丸の角に当たる部分です。そして、公園の広場になっている所は、かつて御堀でした。

戊辰戦争と「道の記」

 幕末戊辰戦争の時 、米沢藩は奥羽越列藩同盟の一員となり、官軍(西軍)と戦う構えをとります。会津を救うべく各藩とも連携しました。
 その中の二本松藩(丹羽家)が官軍に敗れます。二本松少年隊の話は有名ですが、藩主の妻子らは家臣に守られ、米沢藩に助けを求め逃れてきまし た。その時の逃避行の様子を藩主夫人 丹羽久子が「道の記」として書き残しました。そこには、命からがら城を抜け出し、人の目を逃れてやっとの思 いで板谷峠までたどり着く様子や、関所の役人にとがめられないかといった心配、幼い子供たちの体調など、逃避行の様子が手の取るようにわかりま す。
 無事米沢にたどり着き、米沢藩が夫人たちを丁重に迎え入れ、同盟藩として匿うことを約束し、宿所として定めたのが、当神宮でした。道の記には当 神宮にて丁重なもてなしを受け、不自由なく過ごせることへの感謝の言葉や、さすがは謙信公以来の上杉家と賞賛の言葉が書き記されています。
 「道の記」にはその後、無事に二本松に戻るまでの日々のことが書かれています。

赤崩れ石の常夜灯

境内の正面、鳥居の前に2基の常夜灯があります。形はとてもシンプルですが、色が少し変わっています。赤みがかった石です。あまり他では見ない 石でできています。昔から『赤崩石だ』と言い伝えられてきました。
今回の御遷宮にあたり、常夜灯が周りの土地に比べ沈み込み、さらに土台のコンクリートも割れてきているため、改修することに。そこで土台は石にし ようとなりましたが、本体と同じような石がないか、ということになりました。事業部の佐藤氏があちこち探してやっと同じ石を発見。そこはやはり 『赤崩』でした。市内南部、山上地区にある赤崩地区に確かに石はありました。今はほとんど使われることはなくなったそうですが、江戸時代にはここ から石が切り出され使われていたそうです。
ちなみに2基のうち、東側に立つ灯篭は「文化四年丁卯(ひのとう)」=1807年と刻まれています。西側は「天明三年癸卯(みずのと う)」=1783年と刻まれています。誰がどんな思いで寄進されたのか、赤崩からどんなふうに運ばれてきたのか、など興味は尽きません。
左 が文化4年、右が天明3年