
関東以北唯一の古墳群およそ300基を今に残す戸塚山(とつかさん・356メートル)は、昔「十握山(とにぎりやま)」と呼ばれ、伝説の多い山でもあります。文政年間に記された当山の縁起もその一つで、次のような内容が書かれています。役小角(えんのおずぬ 修験道の開祖)が出羽の羽黒山に向かう途中、十握剣を祀る武荅天神(たけあらぎのかみ・牛頭(ごーず)天王・祭神スサノヲノミコト)の鎮座する「十握山」に登拝されました。その折、この山の登拝は一般参詣者にはとても困難な地であるので、山の北東を流れる大河のほとりにこの御堂を祀るにふさわしい景勝地があるので、そこにこの牛頭天王を祀るようにとのお告げがあったといいます。その地が現在の天王川の下流、旧天王跡「笹淵」(現高畠町地内)であったそうです。 その後、東北に巡行の慈覚大師(天台宗総本山比叡山延暦寺の第三代座主)が、出羽の山寺(立石寺)を創建されたが、その途中「十握山」の東方にある「一念峰」(いちねんぼう・現米沢市長手地内)の奇岩怪石の景勝地に参籠され、牛頭天王堂にも来られて国家安穏・万民の諸願成就を修法されたと伝えられております。 この頃、村人の中から慈覚大師に出家を願う行者が現れ、比叡山に登り修行の末、「大覚坊」の名をもらって、十握山の西山麓に小さな庵を結び、牛頭天王を別当し、疫病退散・武運長久など民家の安全を願い、日夜祈願に努めていたといわれます。この大覚坊が後の大覚院の開基と言われています。 |
| 時移り、十五世紀末の延徳年間に、大覚阿闍梨が京都聖護院に修学し、本山派の修験僧となり、以来本山派の修験寺院としての法燈を後世に伝える事となりました。その後、幾度か院号も変わり、伊達時代には「金剛山」後に「大学院」と改めた時代もあり、元文五年(1740)再び慶山法印が「大学院」と改め、宝暦二年(1752)牛頭天王堂を河川の氾濫から守るために、笹淵の地から上流の天王橋西岸に移築され、この時の大覚院第一世が慶順法印で、大覚坊開基より数えると五十七世に当たります。現在地に移っておよそ250年、大覚坊開基より約800年を数える事になります。 近世以降は、特に出羽三山信仰が強く、中でも湯殿山の修行は欠かせない恒例行事の一つで、代々地域の法印先達を務め、当山の本尊湯殿山大権現が祀られているのもそうした経緯があったからです。 |
明治維新頃までは、当山を含む九ヶ寺の本山派修験寺院が近郷にあり、慈覚大師開山の一念峰と戸塚山観音に於いて、交互に採燈大護摩供が修法されていました。しかし、明治5年の神仏分離令以降は、一部は神社に、大半は天台寺門宗園城寺(三井寺)に帰入、ほとんどの修験行法も途絶えてしまいました。昭和21年、修験宗の復活と同時に、当山は聖護院に戻り、先代(十三世)は従前通りの修験の法燈を今に伝える事になりました。 |
今では山形県内唯一ヶ寺の神仏混合の本山派修験(山伏)寺院にて、各種祈願・各種相談・地相と家相鑑定・特殊葬祭などを日常法務とし、人々の幸福と心身教化のため、少なからず寄与しているところです。 |
文政二年(1819)極月(12月)に記された天王縁起には主に次のような内容が記されております。牛頭天王は素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祭神とする。神代の昔、伊弉諾尊(イザナギノミコト)は筑紫の国日向の小戸橘橿原におられ、三つの神を生まれた。天照大神(あまてらすおおかみ)・月読命(つきよみのみこと)・素戔嗚尊の三神尊である。伊弉諾尊はそれぞれの尊に命ぜられた。天照大神は高天原(たかまがはら)を治め、月読命は海を治め、素戔嗚尊は天下を治めなさいと。素戔嗚尊には十握の剣を授け、その勇敢さから、お前は甚だ道から外れているので、遠く根の国に行く事を指示された。しばらく天照大神が治める高天原に身を寄せ、その後、出雲の国簸(ひ)之川上に行き、奇稲田姫(くしなだひめ)と結婚、八岐大蛇(ヤワタノオロチ)を斬り、その禍を取り除いた。十握の剣を抜いてその大蛇を斬った。尾のところで剣の刃が少し欠けたので、尾を裂いてみると、一振の剣が出てきた。これこそ世に言う天の叢雲(あめのむらくも)の剣である・・・・。 天照大神は素戔嗚尊の御子、天津彦火瓊々杵(ににぎ)尊に、葦原千五百秋之瑞穂国を治める事を指示、十握の剣を十握山に納め、永く東国の守りとなされた。これが十握山の名のおこりである。(今は戸塚山という) こうして十握の剣は東国の鎮護として始まり、ここに納められてからは大和の国石の上に納められたという。別名、羽々斬りの剣といい、羽々は蛇の名で、大蛇を征伐したため名付けられた。また、縄斬剣ともいい、吉備の神部のところにあったので十握の剣と名付けたとも言う・・・。 景行天皇の四十一年、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東夷を征伐された。日高見より和田倉の陵を過ぎ、十握山に行き、素戔嗚尊を祀られると、東夷は直ちに平定された。東夷征伐中、王子に仕える兵士が疾病に悩まされた時、白髪の老人が現れ、「これより西北三里のところに十握山がある。神代の昔、素戔嗚尊が持っておられた十握の剣を納め、永く東国の鎮護として祀られている。そこに素戔嗚尊を祀られれば疾病などなくなり、賊どもは直ちに平定される。」と。王子は直ちに十握山へ向かった。船をこぎ、山へ近づいてみると、荒れ果てており、林は深く、登山道もない。すると、大きな亀が現れ、舟を先導してくれる様子、そのままついて行くと、神居崎(現在の金ヶ崎)についた。王子はそこから十握山に昇り、素戔嗚尊を神居山に祀られると、病魔退散・東夷平定が実現できたという。 以上、伝説及び古書・古老の言い伝えにより、総合して書かれたものと記されたものです。 雑記其の三 「お天王様」 |
| 三大権現 山伏問答の中に、「修験道の本尊は、総じては金胎両部の曼陀羅というべきも、修行専念の本尊は大日如来の教令輪身(きょうりょうりんじん)、大忿怒形(だいふんぬぎょう)の不動明王にて候」とありますが、金剛界・胎蔵界の全ての諸仏、つまりこの宇宙界を構成する全ての万物をご本尊として修験者は拝みます。 当山歴代先徳もまた、時と場合に応じて、あらゆる諸神諸仏をご本尊として崇敬し、中でも当山の歴史と深い関わりを持った牛頭天王(ごうずてんのう)・湯殿山・不動明王の三本尊を三大権現と呼んでおります。 「牛頭天王」は、神々で言えば、神話の八岐大蛇(ヤワタノオロチ)伝説で有名な天照大神(あまてらすおおかみ)の弟、素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、諸仏で言えば薬師瑠璃光如来です。その薬師如来の脇仏、日光菩薩・月光菩薩、その眷族十二神将を包括しており、この地方では俗に「お天王さま」と呼ばれています。その昔、京都八坂神社から分社されたものとも語り伝えられています。 「湯殿山」は、出羽三山の奥の院として知られる湯殿山大権現で、諸仏で言えばその本地である大日如来を示しています。 「不動明王」は、当山の場合、倶利伽羅大聖不動明王(くりからだいしょうふどうみょうおう)ですが、この不動明王は修行専念の時に拝む修験独特のご本尊です。 これら三つのご本尊が三大権現と呼ばれてきたのは、神仏一体と考える修験独特の権現信仰から来たものです。
権現信仰 |
| 六角鬼子母神 戦国時代の昔、この地方であった豪族、浅川采女正(あさがわうねめのしょう)は、田畑や財宝も多く何不自由はなく、その当時にしては裕福な生活をしていた。しかし、五十才を過ぎても子宝に恵まれず、子供のない事を嘆き、寂しい日々を送っていた。ある時、行脚中の老僧が立ち寄られ、采女正と話し込んでいるうちに子宝に恵まれない事に沈んでいた采女正を気遣い、「心配なさるな。あなたは鬼子母神尊を信仰すれば、必ず智恵のある子供が授かります。鬼子母神とは帝釈天の母で、訶梨帝母(かりていも)尊といわれるお方で、ある時、人の子を隠してしまった。すると間もなく訶梨帝母の子がさらわれてしまった。どこを探しても見つからず、悲しみにくれ、神にお祈りをしたところ、神は”子供を隠された親の気持ちがわかったか。自分の子が可愛いのは誰でも同じ事だ。”と。鬼子母神は神に誓った。”もし病気や疫病、流行病などで苦しんでいる子がいれば、我が名を呼び 話を聞いた采女正は、鬼子母神像を頂く方法を聞くと、慈覚大師から頂いた鬼子母神像を老僧が持っているとの事、”あなたに差し上げるからねんごろに祀りなさい”と言われ、早速お宮を建立し信心しました。時は鎌倉時代の延慶元年(1308)八月六日でした。翌年、元気な男の子が授かったといいます。采女正五十三歳、妻は四十八歳だったそうです。 後に永禄年中(1558〜1569)に采女正は、伊達家の家臣と戦いそして敗れ、伊達家に服従し仙台に移っていったそうです。この戦いで戦死した家来五十七人を供養するために、六面地蔵供養塔を鬼子母神尊境内地に建立、それ以来この地を六角と呼ばれるようになり、祀られている鬼子母神を六角鬼子母神と呼ばれるようになりました。 取子信仰 当地方で取子(とりご)といえば、病弱や虚弱な子供が丈夫になるように、または、当時戦時中であったので、青年の無事と武運長久を願ってご本尊に守って頂くというのが一般的でした。当山の場合少し異なるのは、子供だけでなく、老若男女問わず、その人間の魂を一時ご本尊に取り上げてもらい、ご本尊の子(弟子)となって、もう一度生まれながらの仏性に戻して頂き、この世に生まれ変わってもらうという、いわゆる再生の考え方が強いのが特徴です。この取子信仰は、伊達時代よりはじまり、当初、鬼子母神尊へ 訶梨帝母経(かりていもきょう)という経典の中に、鬼子母神は五百鬼神子の母で、五百人の子供を持ち、人の子をさらっては食べる悪女なるが故に鬼子母と名付けられましたが、後に仏の教化により、人の子を誰よりも愛護する善神となられた事が記されています。よく鬼子母神尊を祀ってある境内には石榴(ザクロ)の木が植えられております。一般の家には植えてはならないという風習もありますが、石榴の実が熟する姿が、あたかも鬼が口を開いて子供を食べている様に見える事から植樹に用いられた俗信的な意味と、実が婦人の血流、母乳促進、精神安定などに効くという漢方医学的な意があって用いられてきたのかもしれません。 春と秋、四月十六日と九月十六日に祭礼が行われ、近郷近在の参詣者でにぎわっていたといいます。鬼子母神信仰の多い当山の地域では、昔から豆まきは行わない風習になっており、「福は内、鬼も内」と言って豆を歳の数だけ食べていたそうです。 その後、湯殿山信仰の広まりと共に、牛頭天王・不動明王の三大権現を本尊とする取子者が次第に増え、鬼子母神を本尊とする子供の健康子宝恵与だけでなく、一般成人を対象とする諸願成就が当山の取子制度の特色となりました。 現在は五月五日の三大権現御開帳報恩大会にて取子祭を行っておりますが、修験道廃止期間は一度途絶えた事もあり、昭和五十三年に復活、現在に至っております。「年中行事取子祭」 |
| 当山境内には、霊験あらたかな牛頭天王堂(天王神社)をはじめ、学問と知恵を授け、苦悩から救い、優れた思考性を育てて下さる如意輪観音堂、子宝を恵み授け、夜泣きや悪病退散の神としての六角鬼子母神堂などが建立されています。 |
| 本堂内陣 | 当山別当 天王神社 | 鬼子母神堂と如意輪観音堂 |
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| お行小屋(修行中に隠った建物) | 身代り竜水不動 | 天王会館 |
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