雑 記

其の一  言わず語らずの「身代り竜水不動」

 境内に入ると、せせらぎの音が心地よく聞こえます。その音のする方に目を向けると、結界に囲まれた小さな池が目にとまります。静々とその池に近づいてみると、そこには青銅で造られた竜が大口を開け、そこから水が湧き出ているさまは、まさに神秘的です。
 その竜の口から流れ出る水は、過去二百年近くも渇水することなく、同じ分量・水質で湧き出ているそうだ。
 そこで、この身代り竜水不動水のルーツを探ってみようと思い立ち、当十四世の住職に尋ねてみた。住職の話によると、この水は湯殿山信仰との係わりが強く、寺伝によると、湯殿山に出立の時よく使われたとのことでした。
 出発の朝早く、この竜水を閼伽(あか)水(仏様に供える清らかな水)といって身体に降り注ぎ、あるいは水ごおりを浴びて心身を浄め、甘露の法水といって灌頂(かんじょう)(仏様から頂く)の水としてあがめられていました。
 修行から帰ってくる際、湯殿山ご神体の水垢をいただき、持ち帰り、この竜水に入れ、お閼伽として、難病の方や病苦の方の口に注いでやったそうです。すると、不思議にも病が徐々に治っていったり、苦痛が和らいだり、あるいは死期の近い方の口に注いでは安らかな永遠の眠りに旅立つなど、法水の力には大変不思議な現象が多く伝えられているそうです。
 湯殿山は「言わず語らずの山」と呼ばれるように、湯殿山と深い関わりを持つ当山の竜水もまた、言わず語らずの法水として今日に至っているとのこと。そして、代々法燈と共に大切に護持されてきた貴重な水でもあるわけです。
 ちなみに、平成八年、米沢市内の地下水汚染で騒がれた後、市環境保健課の抜き打ち水質検査を受け、その結果、成分等条件検査基準をはるかに下まわるという検査データが届けられたそうです。
 さすがは法水として尊ばれてきたことが今になって有り難いものと感謝している、との住職の心情と共に、言わず語らずの竜水のルーツを初めて語ってくれた事への厚い情けが身に感じられました。 (市内 K氏)

 

其の二  お山詣りと「お行屋(ぎょうや)」

 古い民家の庭に、今でもお行屋と呼ばれる小さな建物が残っています。出羽三山信仰が最も盛んであった江戸時代頃から大正年間までの間、男子が十五歳になりますと、「初お山」といって、三山詣りに出向きました。当時、お山詣りの前後約一ヶ月間は、精進・修行の期間であり、このお行屋にて寝泊まりし、精進潔斎の厳しい前行を行い、身を浄めて三山に登拝しました。お山から帰ってきた後も、神霊の霊気を帯びた衣・道具などを元の姿に戻すため、行納めの儀として後行したそうです。
 このお行屋での生活は大変厳しいものでした。朝起床すると、まず水垢離(みずごうり)という水行を行います。次に炊事を行い、御飯を神前に供え、御拝上げ(おがみあげ)(三山参拝時の特徴あるお経)を約4〜50分、その後食事をとります。食事の内容は御飯と漬物少々で、俗に言う生臭いものは食にしてはなりません。食後は「切り磨き」といって、食器と仏器に水を入れ、漬物で御飯ののりを三度すすぎ、きれいにします。すすいだ水は全て飲み干します。その後、水垢離をもう一度行い、朝の行は終了。普段通りに職に就きます。昼食は朝の残飯をいただき、朝の行と同様に食前・食後に水垢離、食前に御拝上げを行い、再び職に就きます。
 仕事が終わり行屋に戻ると、朝・昼と同様に水垢離・御拝上げ・夕食・切り磨きを行い、就寝時にもう一度水垢離を行い、床に就きます。
 行に入るので、様々な禁則がありました。肉・魚と飯以外の穀物は食さず、また火を最も尊いものとした為、たばこや火で加工した物は口にしてはならず、女人禁制、親族の不幸を除き外出の禁止、蟻やハエ一匹でも生き物は殺してはならない、等々。
 以上のような前行を毎日行い、お山詣りを満行して帰途につき、行納めを厳修、そして全て終了するわけです。また、行に入る時と出る時は、長いもの(そうめんなど)「やわら」を食し、体内を清浄なるものにしたそうです。
 お行屋生活により、物の有り難さ、人生の尊さ、宇宙への報恩感謝など、真の生きる活力が生まれました。現代ではお山詣りは半ば観光と化してしまいましたが、少しでも先人の苦行・精進を見習いたいと思う今日この頃です。 (管理人 記)

 

其の三  「お天王さま」

 境内には霊験あらたかなお堂がいくつか建立されています。その中でも、本堂に向かって右側の端にやや大きめの方形屋根のお堂があります。このお堂が大覚院でもっとも由緒ある建立物となっています。
 私が幼年時代から青年時代の頃は、天王川岸近くの昼でも暗く感じられる杉林やナラの古木が生い茂る聖地に建っていました。よく幼少の頃、母親から「このお天王様はいつもお前を護ってくれる神様だから、ちゃんとお参りしなさい。」と言われ続けていました。
 小学一年生の秋、母は他界しましたが、その後私は牛頭(ごうず)天王堂のご本尊様に護られているという心の安らぎがあってか、母亡き後といえど、さほど寂しい気持ちになることはありませんでした。そればかりか、現在こうして健康体でいられるのも、これ全て、お天王様の御加護の賜物と感謝の日々を送っております。
 なおこの天王堂は、現在の本堂が新築された時に、天王川岸西側に建っていたものをそのままの形で移築されたものです。
(市内 T氏)

<縁起>
 牛頭(ごうず)天王は、京都八坂神社の分社で、祭神は素戔鳴命(すさのおのみこと)「武塔天神(たけあらぎのかみ)」で、その本地である薬師瑠璃光如来・不動明王が奉られ、以前は薬師堂と呼ばれていた。
 およそ千二百年前、役行者により十握の剣が修められたといわれる戸塚山山頂に小祀堂が創建され、慈覚大師によって薬師如来・千手観音の秘仏が祀られたと言われる。
 時流れ、伊達時代の浅川村豪士、采女正(うねめのしょう)の頃、武運長久と村の疫病除けのため、下浅川の笹渕に御堂が再建されたが、天王川の氾濫により破損。宝暦二年(1752年)六月、現大字浅川北原地内に移築された。
 天王川と深く関わりのある牛頭天王堂には、古来より数々の大蛇伝説が残されており、今でも初もぎの「きゅうり」を御宝前にお供えし、参拝される方が絶えない。

 

其の四  「役行者一千三百年御遠忌」京都御所参内大行列

 役行者一千三百年御遠忌、このお話は今から四年前、住職よりお話がありました。
諸準備も全て整い、今年いよいよ京都へ向けて出発。山伏出仕者は、修験衣体とし、協賛会の一般参加者は略袈裟をかけての参加です。
 平成十二年六月三日早朝、大覚院をバスにて出発、一路仙台空港へ。大阪空港着、バスにて京都聖護院にお昼頃到着。到着後、山伏出仕者はただちに山伏装束に着替え、京都御苑出水広場に集合、全国からの山伏参加者およそ700人、大先達のかけ声にて整列、私語厳禁など数々の注意事項を受けました。
 一同総礼し、法螺の音の合図と共にいよいよ出発です。先駆金棒、法螺衆、慶讃旗、各講旗、大本山旗、法螺衆、法具持、騎馬先達、山伏衆(准先達〜直参大先達)、騎馬先達、法螺衆、本山旗、寺院衆、本山衆、門跡四方御輿、上位先達、騎馬先達、山袴浄衣衆、略浄衣衆、浄衣カンマン衆の順に二列縦隊にて、午後一時十五分出発し、普段は拝見する事も出来ない御所宣秋門より内に入り、砂利が敷き詰められた参内を行進、承明門前にて一行集合・整列。聖護院門跡五十一世加来徳泉御門主の願文に続き、一同読経。世界平和・国家安穏を祈願し、再び二列縦隊にて、御所・清所門・建礼門と御所内を一巡する。御所退散後、京都市内を約3.5キロを行巡し、聖護院到着。所要時間約二時間を要しました。
 到着後、しばし小休憩。再び総礼し、行列参加者全員が聖護院宸殿前の道場に入場、道場結界内に土座し、慶讃採燈大護摩供の始まりです。山伏問答・法弓・法剣・法斧に続き、御門主の願文奉読、山伏一同の読経、また、一般参加者も読経に加わり、盛会のうちに無事護摩供終了。本山の護摩供の燃え上がる炎と煙を見ながら、祈念する心に光明がある気持ちで一杯になりました。
 本山聖護院も皆様方の御寄進により、環境整備が行き届き、宸殿も美しい姿に生まれ変わっておりました。御門主からも温かい御礼の言葉があり、この度の御寄進に深く感謝されておりました。護摩供終了後は聖護院御殿荘に宿泊、夕食時には無事拝謝出来た事など談笑のうちに過ぎました。振り返ってみると、全国の山伏一行衆とともに大護摩供に参加できた事に感謝致さねばと念じております。
 翌日、聖護院をあとにし、二条城・銀閣寺・嵐山・金閣寺・比叡山延暦寺を拝観、琵琶湖畔の雄琴温泉に宿泊。湖畔の夜景の美は別格の感がありました。
 三日目は、三井寺・清水寺・東寺・大阪城を見学。三井寺は早朝にて観光客も少なく、静寂の内に参拝する事が出来ました。この三井寺は、一時大覚院の本山であり、住職の亡父が修行された所とお聞きし、一層親近感を持ったところでした。大阪空港から仙台空降着、空港よりバスにて大覚院到着。全員無事に帰途に就く事が出来ました。
 三日間全て天候に恵まれ、心に残る御遠忌参拝でありました。大覚院住職をはじめ、参加されました皆様に心より御礼申し上げます。  (市内 F氏)

其の五  お山詣り(出羽三山参拝)

 出羽三山とは、湯殿山・月山・羽黒山の三つの霊山を指し、今から約一千四百年前開かれました。古代からの山岳信仰と密教が融合して、修験の根本道場として発達し、浄めの山、山伏の行場として今日まで信仰を集め、特に神秘に包まれた湯殿山は、羽黒・月山の奥の院として、戦前までは女人禁制・語られぬ湯殿として全国から行者を集め、難行・苦行の登拝を通して、己の心身を鍛える修行の山です。
 大覚院の本尊は、この湯殿山大権現(大日如来)と牛頭天王(薬師如来)、そして不動明王の三尊であり、修験道の開祖役行者の足跡を訪ねる年一度の湯殿山登拝が習わしとなっているようです。
 ここ数年は多くの諸行事が重なり、団体参拝を休止していたようですが、平成八年より復活し、本年も三十五名の参加を得て、七月二十六・二十七日の二日間に渡り三山参詣を実施、参加しました。
 第一日、早朝の清浄な空気の中、大覚院本堂で道中の無事を祈る御祈祷が行われて、大型バスにて三山登拝の拠点、仙人沢へ一路出発。約三時間後、仙人沢へ到着。バスを降りて梵字川渓流沿いに湯殿山本宮を目指して歩きます。途中、行者の籠り場跡や大小の社・石仏に礼拝しながら本宮に到着。御神体の奇岩前にて拝み上げ(大覚院独特の読経)を行いました。
 ここから二班に分かれ、十五名の上回り班は月山山頂を目指し、月光坂を登り始め、鉄ばしごの連なる急斜面の難所を一歩一歩前進します。ようやく第一の難所を無心で登り切り、濃いガスの中を全身汗まみれで峰づたいに歩いていると、谷の下から涼風が吹き上げ、突然視界が開けてきます。そこはまさに月読命(つきよみのみこと)の住む阿弥陀如来の浄土の世界に一変します。色とりどりの花が咲き乱れるお花畑、遠くに点在する大小の池、新緑と残雪、青い空と足早に流れる雲のコントラスト、眼下には豊穣な庄内平野が拡がり、その先には群青の日本海、そしてはるか遠くに鳥海山。まさにこの山は神仏の住む世界にふさわしいと感動しました。
 昼食をはさみ、山頂の月山神社で勤行、その後下回り班の待つ八合目まで長い下り坂をひたすら歩きます。踏みしめる一つ一つの石の角が丸くなっています。一千余年の時の流れと多くの行者の姿が偲ばれます。予定時間を大幅に過ぎ、八合目で下回り班と合流、ほっとする瞬間でした。
 一方、下回り班は、女人禁制の当時、女の湯殿山と呼ばれた大日坊と七五三の桜で有名な中連寺を参拝しました。ちょうど秘仏の公開も重なり、御住職の話も熱のこもったものであったようです。
 八合目で合流後、一路今晩の宿である湯野浜温泉へと向かいました。車中では参加者全員が熟睡していたようです。温泉入浴で一日の疲れを癒し、満行の宴で慰労の酒を酌み交わしましたが、体力に余力が残っていた数名は遅くまでマイクを握りしめていたようです。
 第二日目は、羽黒山に参拝、昼食は宿坊にて精進料理をいただきました。その後、帰途の道につき、日本海沿いを経由し、途中鮮魚センターにておみやげを買い込み、夕方六時頃に無事全員帰山、本道にて満行御礼の勤行を行い、自宅へと向かいました。
 お山に登る(入る)事は、擬死再生(ぎしさいせい)と言い、一度お山(母親の胎内)に入り(戻り)、再び下山(生まれ変わる)する再生の行と言うそうです。たった二日間でしたが、どことなく新しく生まれ変わったような今回の三山参拝でした。一年に一回の貴重な時間、また来年も是非参加致したいと思います。   (市内 S氏)