日記倉庫

2003年11月

2003年11月20日(木曜日)朝曇り時々晴れ夜10時より 最高13.9℃ 最低1.5℃

 今日の“サロン・カンタンド”は、今年の4月に続いて月岡さんによるイスラエルのお話でした。“サロン・カンタンド”のことや4月の話の内容は、4月17日の“ダイアリー”をご覧いただきたいと思います。
 それでは、今日のお話の中から印象に残ったものをご紹介します。なお、一部4月17日の内容と重複します。

 思ったことをストレートに言います。贈られたものでも、気に入らなかったたり、不要なものは、送り主の返します。
 デパートやスーパーでは、客が陳列されている商品の箱を開けて勝手に試食用にしてしまいます。食べられたい放題です。
 夏、歩いての外出は自殺行為です。身体からどんどん水分が放出されるからです。車が絶対に必要なのです。
 車検はあります。しかし、袖の下・・・(2〜3000円)によりパスになってしまいます。
 車の値段は日本の2倍以上します。中古車でも100万円以上します。そのため、ガラス窓のない車が走っていることもあります。
 銃を持っていることで銃犯罪の被害を最小限に食い止めることができます。銃を使った犯罪が発生した時、銃で対抗できる人間がいれば、被害者を少なくすることができるのです。
 日本では地震が発生しますと、その地域への電話は遠慮願います、とのコメントが発表されます。日本人はそれを守るでしょう。しかし、イスラエルの人は「逆に空いただろう」と考え、結局はその地域への電話が集中し、パンクするのです。
 エルサレムは待ち時間なしで観光できます。あとは、危険を気にするかしないかです。
 事件がありますと、通りがかりの人もいっしょになって救急処置にあたります。みんな救急処置の仕方を知っています。
 マナーは悪いです。飛行機の中、夜みんなが寝静まっている時、映画を観ながら大声を出します。躾がなっていないからです。

 月岡さんも初めは銃を持っていることに恐さを感じましたが、多くの人が銃を持っていますので、だんだん気にならなくなったそうです。日本は銃を保持しなくても生活できます。幸せなことです。しかし、その日本も次第に治安が悪くなりつつあります。

 少々時間が経ってしまいましたが、音楽関係の出来事をお伝えします。訃報です。ライチャス・ブラザーズ(The Righteous Brothers)のボビー・ハットフィールドが去る11月5日亡くなりました。63歳でした。
 ライチャス・ブラザーズは、ビル・メドレーとボビー・ハットフィールドの白人男性ボーカルデュオです。ビルが低い方を、ボビーが高い方を歌いましたが、その歌い方はまさに“ソウル”でした。その歌を聴いた黒人たちは「お前たちはブラザーだ」と言ったのです。まだ人種差別の激しい1960年代前半のことです。そこで、本当の兄弟ではないにもかかわらず、ライチャス・ブラザーズと名乗ったのです。
 1964年になりますと、フィル・スペクターをプロデューサーとして迎え、彼らの代表曲「You've Lost That Lovin' Feelin'(ふられた気持ち)」や「Unchained Melody(アンチェインド・メロディー)」を発表します。特に「アンチェインド・メロディー」は、その美しいメロディーとボビー・ハットフィールドの心のこもったボーカルで何度もリバイバル・ヒットしています。
 私の前にラジオが存在するようになって間もなく、洋楽との付き合いも始まりました。1966年のことです。その当時聴いた番組は、NHKFM(当時は実験放送の時代でした)の土曜日夕方に放送された各県毎のローカル・リクエスト番組でした。現在ラジオ第一放送で土・日曜日の朝の番組を担当されている伊丹アナウンサー(当時は山形局勤務)がDJを担当していました。その番組で「アンチェインド・メロディー」が何度もかかったことを覚えています。本当に良い曲です。
 ライチャス・ブラザーズは現在もライブ活動を行っていました。しかし、ボビーの“ソウル”を生で聴くことができなくなったのです。
 “ブルー・アイド・ソウル”という言葉は、ライチャス・ブラザーズから出た言葉とされています。合掌。

◆アメリカ・カリフォルニア州サンタバーバラ郡の司法当局は19日、マイケル・ジャクソン(45歳)の逮捕状を取ったと発表しました。容疑は「児童への複数回の性的虐待」です。マイケル・ジャクソンは、20日にも出頭する見通しです。


2003年11月19日(水曜日)晴れ 最高17.8℃ 最低3.4℃

 飯豊町と小国町に出掛けました。置賜地方は、米沢市・南陽市・高畠町・川西町の東置賜と長井市・白鷹町・飯豊町・小国町の西置賜に分かれます。米沢市に住んでいる私は、なかなか西置賜地域に行く機会は少なく、特に新潟県境に位置する小国町へは久しぶりに出掛けました。何年ぶりでしょうか。10月28日の“ダイアリー”で書いたことも気になっていましたので、いつかは小国町に行きたいと考えていたところでした。
 まず、飯豊町白川ダム湖畔に行きました。白川ダム湖畔には、宿泊施設、公園、キャンプ場などの施設があります。私が行った時には、公園でゲートボールをなされているグループを見掛けました。
 米沢から白川ダム湖畔に行くには、国道113号線から入るのですが、これでは遠回りになりますので、国道112号線から川西町玉庭地区を通って行きます。その間、2つの峠を越えることになります。特に、玉庭地区と白川ダム湖畔間の峠道は道幅が狭く曲がりくねっており、私にはきつい運転になりました。しかし、峠近くでは、遠く“吾妻連峰”“栗子山系”“蔵王連峰”まで望めました。なお、峠付近では新潟のFM局も聴こえました。また、FM山形米沢中継局の電波も入感しました。
 白川ダム湖畔から小国町へは国道113号線には出ず、さらに山道を進むことにしました。飯豊町中津川地区を通り、再び山道です。道幅がところどころ狭くなりましたが、峠付近では意外に道路は整備されていました。飯豊町と小国町との境が峠です。峠からはさらに遠くなった“吾妻連峰”“栗子山系”を望むことができました。FM山形米沢中継局の電波も入感できました。出力が10Wから100Wへ増力になったため、入感できたのです。
 小国町に入って約30分、ようやく市街地に到着しました。本当に「ようやく」という感じです。それでも道路は整備させていましたので、思っていたよりは早く着きました。
 これまで小国町は国道113号線沿いを通過したことは何度もありますが、市街地をまわってみたのは初めてです。ちょうど、小学生の下校の時間帯であったこともあり、人通りはありました。中心部には大型ショッピング店がありました。中に入ってみましたが、平日とはいえ、あまりお客さんが入っていないように見えました。町内人口に対する店舗規模が適切か、という問題もありそうです。もう少し小さくでも良いように感じました。(これはあくまで私の主観です)
 国道113号線沿いには、前回小国町に来た時にはなかったコンビニが2店舗(SとF)ありました。コンビニの駐車場に車を停め、飲み物を仕入れた後、ラジオの受信状態を確認することにしました。その結果をご紹介しますが、今回はSINPOコードの内、総合評価のみとします。では、まずAM(中波)放送から。
  NHK山形  3 4  540KHz
  NHK新潟  3 4  837KHz
  YBC山形放送 5 5  918KHz
  NHK米沢  2 2 1026KHz
  BSN新潟放送 4 4 1116KHz
 NHKはラジオ第一放送のことです。数字の左は携帯型のラジオ、右はカーラジオによるものです。NHKでは、山形市からの電波が思っていた以上によく入感しました。また、米沢の電波も弱いながら入感できました。ただ、夜になれば混信で1(聴取不能)になるでしょう。ちなみに、私が受信確認したのは、午後4時です。BSNは、NHK新潟より強く入感しました。YBCは小国町に中継局があります。
 次はFM放送です。こちらは、携帯型のラジオのみでの受信です。
  FM新潟   1 77.5MHz
  FM山形米沢 1 77.3MHz
  NHK小国  5 89.8MHz
 実はFM新潟は受信できると期待したのですが、ダメでした。これが、感度の良いカーラジオなら受信できたかも知れません。なぜなら、国道113号線で米沢に戻る時も場所により受信できたからです。小国町の市街地は山陰になって電波が弱くなるのです。これは、FM山形米沢中継局も同じでした。小国町の市街地では、民放FMを気軽に聴く、というわけにはいかないことが分かりました。
 なお、FM Port(79.0MHz・新潟)は、今日の移動した範囲では受信できませんでした。

 マイケル・ジャクソンの自宅が家宅捜索を受けている、というニュースが報じられました。これについては、日本時間の明日、当局から発表がある、とのことです。
 1969年にデビューした“ジャクソン5”は、1970年、デビュー曲の「I Want You Back」から「ABC」「The Love You Save」「I'll Be There」と4曲連続“Billboard HOT100”の第1位に送り込み、全米チャートを席巻しました。マイケル・ジャクソン12歳の時です。それは、当時の私にとっても衝撃でした。
 1972年、「Ben」(ベンのテーマ)がソロとして初めて第1位になりました。ラジオ関東(現:RFラジオ日本、本社:横浜市)で、湯川れい子さん(米沢市生まれ)がDJを務めた「全米トップ40」(“Billboard HOT100”の上位40曲を紹介する番組、“American TOP 40”に日本語解説を付けたものです)の1回目の放送(1972年10月)で1位になっていたのが「Ben」でした。変声期前のマイケル・ジャクソンの歌声を聴くことができます。
 ちなみに横浜からの電波は時々聴きにくくなり、苦労したことを覚えています。この番組については、またいずれ書きたいと思っています。
 マイケル・ジャクソンと言えば、モンスター・アルバムと言われる「Thiriller」(スリラー、1982年)を真っ先に思い出されるでしょう。しかし、私は「Off The Wall」(オフ・ザ・ウォール、1979年)の方が好きです。クインシー・ジョーンズと初めて組んだこのアルバムは彼の最高傑作アルバムだと私は思っています。このアルバムによって「スリラー」が生まれたと言ってもいいでしょう。
 「スリラー」によって彼はポップス界を代表するアーティストになりました。その後、彼の肌は徐々に白くなっていきました。そして、いろんな噂が飛び交うようになりました。
 真相は私には分かりません。しかし、彼の作品と衝撃は間違いなく音楽界の歴史に刻まれました。


2003年11月18日(火曜日)晴れ 最高13.9℃ 最低3.3℃

 昨日は、米沢・置賜地方にも“木枯らし”が吹きました。今朝になって“木枯らし”もおさまり、穏やかに晴れわたりましたが、周りの山々に雪が積もっているのを見ることができました。いよいよ、冬が間近に迫っています。それでも、まだ斜平山(なでらやま)には積もっていませんので、平野部に降るのはもう少し先でしょうか。

 今年の“まちの広場”のイベントも終了しましたが、今日、係の人がステージなどの清掃作業を行いました。この1年の汚れを拭き取り、冬に備えようというものです。作業の合間には“おきたまNPOプラザ”にも立ち寄っていただきました。今日は天気にも恵まれ、作業は順調に進んだようです。
 そして、今夜から“まちの広場”の街路樹に付けられたイルミネーションも点灯されました。冬そして年末に向かって、時間はどんどん進んでいくのです。なお、“まちの広場”のイルミネーションは来年2月まで点灯されます。

 一昨日書きました“初代 iMac君”、業者に見てもらうことにしました。そこで、山形市の業者に持ち込みました。やっぱり愛着には勝てませんでした。修理費用見積もり結果で最終的に判断しますが、何とか生き返ってほしいと願っています。


2003年11月17日(月曜日)曇り時々のち曇り 最高9.6℃ 最低3.8℃

 “ひとりごとダイアリー”は今日、満2歳の誕生日を迎えました。この間、私が勝手気ままに、言いたい放題書いているにも関わらず、ご愛読いただいた皆さんに感謝したいと思います。ありがとうございました。
 書いている本人もこんなに続くとは考えてもいませんでした。ビックリです。しかし、本人は継続することが大切だ、とも考えています。というわけで、これからも引き続きご愛読くださいますようお願い申し上げます。

 今日は“ダイアリー2歳のアニバーサリー”に相応しく?ビートルズの話題を書かせていただきます。
 先週11月14日、ザ・ビートルズ(THE BEATLES)の「レット・イット・ビー・・・ネイキッド」(LET IT BE・・・NAKED)というアルバムが発売されました。
 もともとアルバムとしての「レット・イット・ビー」は、1970年5月に発売されました。ポール・マッカートニーが、ビートルズ脱退を表明したのがこの年の4月でした。「レット・イット・ビー」は、ビートルズ最後のアルバムとして発売されたのでした。
 シングル「レット・イット・ビー」は同じ4月、Billboard(アメリカの音楽業界紙)HOT100で第1位になっていました。その美しいメロディーとポール脱退表明・ビートルズ解散というニュースにより「レット・イット・ビー」は大ヒットしました。
 洋楽で「心に残っている曲は」とか「後生に残したい名曲は」といったアンケートをとりますと、「イマジン」とともに「レット・イット・ビー」は必ず上位にランクされます。不朽の名曲と言って良いでしょう。
 アルバム「レット・イット・ビー」は、1969年1月にアルバムと映画制作のためのセッションとしてレコーディングされました。アップル(ビートルズのレコード会社)屋上で4人がセッションを行ったのは1月30日です。
 この頃にはメンバー4人がバラバラになっていたビートルズ。映画制作のため、ということで、4人はこのレコーディングにあまり力が入らなかった、という説もあります。逆に、映画では、リラックスした4人を観ることができる、とも言えます。
 ビートルズのアルバムと言えば、メンバーの意のままに発売されると思うでしょうが、アルバム「レット・イット・ビー」はメンバーの意に反し、フィル・スペクターのプロデュースにより、ストリングスなどが加わって発売されました。しかし、結果はこのアレンジがますます大衆の哀愁を誘い、大ヒットしたのです。
 今回発売された「レット・イット・ビー・・・ネイキッド」は、ストリングスなどを削除し、もともとの音で聴くことができるアルバムとして発売されました。30年以上経ってからです。ビートルズでも、こんなことがあるのです。
 このレコーディングにあまり力が入らなかった4人、いくらバラバラでもビートルズのメンバーとして不満が残りました。そこで、彼らは新しいアルバムを作ろうと曲作りを始め、同じ年(1969年)春から夏にかけてレコーディングを行いました。これが不朽の名アルバム「アビー・ロード」(ABBEY ROAD)です。「カム・トゥゲザー」「サムシング」などが入っているアルバムですが、そのハイ・クオリティは、当時4人がバラバラとはとても思えない出来になっていました。見事なアルバムです。
 「アビー・ロード」はこの年の9月に発売になりました。私は「オール・ナイト・ニッポン」で午前4時台に全曲放送されたのを、眠い目をこすりながら聴いたことを覚えています。

 「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」(SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND・1967年)とともに最高傑作・不朽の名アルバムとされる「アビー・ロード」、4人があまり力を入れなかったものの大衆人気となった「レット・イット・ビー」、ビートルズ最後のレコーディングとなった「アビー・ロード」、レコーディングから発売まで1年半が過ぎビートルズとしては最後に発売された「レット・イット・ビー」、ビートルズにもこのようなギャップがあるのです。


2003年11月16日(日曜日小雨 最高19.6℃ 最低6.2℃

 アップル・コンピューターは1998年8月29日“iMac”(アイマック)というパーソナルコンピューター(パソコン)を発売しました。その斬新なデザインが一躍(特に女性を中心に)人気を呼び、パソコン界に革命を起こした、という人もいるほどになりました。また、半透明のデザインが流行するきっかけにもなりました。“初代 iMac”は、ボンタイブルー1色でしたが、1999年1月には、ストロベリーライムブルーベリータンジェリングレープの5色になり、そのカラフルなデザインは Macファンの間でますます人気を呼びました。“iMac”はその後もデザイン変更がなされ、現在は半円球のボディの上に液晶ディスプレイが搭載されています。
 我が家にはどういうわけか“初代 iMac”がありました。今回、これを“おきたまNPOプラザ”に置こうと考え、貸し出すことにしました。
 数日前“おきたまNPOプラザ”に持ち込んだ時には、“初代 iMac君”は正常に起動しました。今日は、インターネットに接続するためのセッティングを行うべく、妻といっしょに“おきたまNPOプラザ”へ出向きました。電源スイッチを入れました。何の反応もありませんでした。「まさか!」 どこか接触でも悪いのではないかと思い、いろいろやってみたのですが、“初代 iMac君”はまったく反応しませんでした。
 妻が Mac を扱う業者に電話したところ「突然、電源が入らなくなることがあります」とのことでした。そして、「修理は可能ですが、調べる必要があります。調べて見積もりを出します。ただ症状によっては新品を購入した方が良いです」とも言っていました。調べるだけでも費用がかかるそうです。
 「“iMac”が死んじゃった」妻は肩を落としました。私には慰める言葉もありませんでした。

 しかし、今回のトラブルは不可抗力です。パソコンにはこのようなトラブルが付きものかもしれません。突然やってくるパソコン・トラブル、目に見えないだけに私には理解できません。
 昨夜も、今私が使っているパソコンで、インターネット接続が少々不安定になりました。私には対処方法が分かりません。イラ立つ中、妻がバージョンアップしたOSをインストールしました。その結果、快適になりました。
 でも、やはりこのようなパソコンに、私はのめり込めません。なぜなら、放送は「トラブルは不可抗力です」では済まされないのです。放送では、トラブルは極力未然に防止し、トラブルが発生しても直ちに対応できる体制を整えていなければならないのです。

 さて、“初代 iMac君”はどうしたら良いのでしょうか。高い経費をかけて修理するより、処分した方が良いのかもしれません。でも、何となく愛着があります。こんなことで悩むのは邪道かもしれませんが、それが人間というものです。


2003年11月15日(土曜日晴れ 最高12.6℃ 最低-0.9℃

 米沢市民文化会館で某中学校の定期演奏会が開催され、周辺は大勢の中学生でにぎわいました。米沢市民文化会館は“まちの広場”の北側に位置します。そのため、私が昼食を終えて“おきたまNPOプラザ”に戻ってみますと、“おきたまNPOプラザ”前の歩道と“まちの広場”の一部は自転車でいっぱいになっていました。これでは中に入れないのではないか、と思いましたが、入り口前には置かれていませんでした。これがしばらく前だったら入れなかったでしょう。入り口にその旨のお願い表示をしていたためでしょうが、空けてくれたことにチョッピリ嬉しくなりました。
 しばらくしますと、自転車はさらに整然と置かれていました。指導があったのかもしれませんが、気持ちよくなりました。そして、きちんとお願いしたり指導することが大切であることをあらためて実感したところでした。

 3日ほど前のことです。はやり昼食後“おきたまNPOプラザ”へ戻りますと、自転車数台が入り口前に置かれ、中に入れない状態になっていました。近くに小学生の女のお子さん数人がいましたので「みなさんの自転車ですか。移動してもらえませんか」と言いました。小学生たちは「すみません」と言いながら移動しました。私は「ゴメンなさいネ」と言いました。
 これもチョットしたことですが、良かったと思いました。なお、私の小学生への言い方もお分かりいただければ、ありがたいと思います。

 来る11月27日(木曜日) 午後6時30分から約2時間の予定で“そばパーティー”が開催されます。主催は米沢市内のNPO法人“環境フォーラム21”です。場所は東京第一ホテル米沢です。詳しい内容は、トップページから入れるようになっていますので、ご覧いただき、多くの方々にご参加いただきたいと思います。なお、当日私どもでは司会を担当させていただくことになりました。


2003年11月14日(金曜日)晴れ一時曇り 最高11.6℃ 最低1.8℃

 午後11時すぎ、車に乗り込みました。フロントガラスに水滴が付いていたため、前が全く見えません。ワイパーを動かしました。これで前が見えるようになるはずです。しかし、水滴は取れず、ワイパーがザーザーといいながら動くだけでした。水滴が凍っていたのです。この秋、初めて凍ったものを見ました。午後11時の測候所の温度は 2.1℃でした。
 今年は冬の訪れが早いと思っていましたが、最近は意外に暖かな日が続いていました。しかし、季節は確実に進んでいます。特にこの時期は日が暮れるのが早くなっています。米沢では午後5時を過ぎますと暗くなってしまいます。昼の時間が最も短いのは“冬至”ですが、日没時刻が最も早くなるのは、12月8日頃です。ですから、秋の日は“釣瓶落とし”なのです。


2003年11月13日(木曜日)曇り一時小雨 最高10.7℃ 最低5.0℃

 米沢市街地中心部(“おきたまNPOプラザ”前)にある“まちの広場”には街路樹が植えられています。昨日のことになりますが、街路樹にハシゴをかけている人がおりました。雪囲いかな、と思いましたが、よくよく考えますと、この街路樹には雪囲いはいたしません。近づいてみますと、イルミネーションを取り付けているところでした。「もう、そんな時期なんだ」と思いました。
 今日になって、点灯されているのを見ることができました。いよいよもって年末気分にさせられました。本当に時間の経つのは早いものです。ただ、今日は試験点灯だったのでしょうか、午後8時30分に見た時には消えていました。

 音楽の話題をひとつご紹介します。現在、各FM局でかかっている曲のひとつがアンダーワールド(Underworld)の「ボーン・スリッピー 2003」(Born Slippy 2003)です。
 アンダーワールドは、イギリスが生んだダンス・ミュージック・ユニットです。1988年(1986年という説もあります)、ファンク系のユニットとしてカール・ハイドとリック・スミスの2人で結成されましたが、1992年、DJのダレン・エマーソンが正式にメンバーに加わりますと、一転してダンス・ミュージック・ユニットとして路線を歩むことになります。そして、1995年に発表された「ボーン・スリッピー」(Born Slippy)が大ヒット、一躍脚光を浴びることになります。
 「ボーン・スリッピー」は、印象的なメロディのシンセのイントロから始まり、それに無機質的な男性ボイスが乗り、さらにはバスドラの強烈なビートへと展開する曲です。やがて、この曲はハウス、テクノ、クラブ・シーンの名曲と呼ばれるようになりました。映画『トレインスポッティング』にも採用されました。
 この秋、アンダーワールドはベスト盤をリリースしましたが、同時にシングル「ボーン・スリッピー 2003」もリリースしました。これが、今FM曲でかかっているのです。イントロのメロディが少し変わり、シンセからピアノになりましたが、あの「ボーン・スリッピー」の雰囲気はそのままです。
 1970年代前半の“ゴー・ゴー”から“ディスコ”、80年代に脚光を浴びた“ ジュリアナ”など、ダンス・シーンは時代とともに変化しましたが、現在もクラブは存在し、DJたちが活躍しています。
 私も一度はダンス・クラブを体験したいと思っていましたが、いつの間にかオジサンになってしまいました。
 ダンス・ミュージックというくらいですから、踊るための音楽、つまりクラブでは、音楽はなかなか主役にはなりません。しかし、そんなハウス、テクノ、ダンス・ミュージックにも名曲が存在することを私は申し上げたかったのです。


2003年11月12日(水曜日)晴れ朝曇り 最高14.1℃ 最低7.0℃

 小野川温泉河鹿荘に伺いました。社長の佐藤雄二さんに某番組の収録テープをお渡しするためです。テープはしばらく前に私の手元に届いたのですが、今日になってしまいました。反省!
 収録は9月に行われたものです。この日の佐藤さんは、ほかのFM局にも出演されており、2本の番組をこなしたことになります。
 小野川温泉は、米沢市街地からは南西方向に位置していますが、斜平山(なでらやま)の陰になります。平安時代、小野小町(おののこまち)が開いた温泉です。
 佐藤さんは“『観光知』のカリスマ”として活躍されています。小野川温泉でも観光客誘致のため、これまでも様々な取り組みを行ってきました。しかし、なかなか効果が出ませんでした。そこで、平成13年、若手が中心になり“観光知実行委員会”を発足させました。直接観光に関わらない人たちもメンバーになりました。この委員会では、できるところからお金をかけずに知恵を絞ったまちづくりをしよう、そのためにはまず自分たちが住んでいる地域の良いところ・悪いところから知ることが必要、という強い信念のもとに、魅力ある温泉街づくりを実践しています。佐藤さんは、この委員会の実行委員長を務めています。
 佐藤さんは委員長として、“夢ぐりプラン”“そぞろ歩きお休み処”などの取り組みで“歩ける温泉地”づくりを実践し、“『観光知』のカリスマ”に選ばれたのです。“歩ける温泉地”とは、観光客が楽しみながら歩ける温泉地のことです。浴衣を着ながら、ゲタ履きで気軽に歩けるようにすることです。そして、歩くことが温泉街ににぎわいを醸し出すのです。それは、建物だけが温泉街の景観を演出するのではなく、お客様も景観を演出することになるのです。
 そのほかにも様々なアクションプランがあります。そのひとつが、米沢ラーメンの“どこでも出前”です。河川敷に3ヶ所の出前スポットがあります。そこには、ベンチ・テーブル・メニュー表が用意してあります。携帯電話で注文すると、そこまで出前するのです。
 これまでは、観光で来るお客さんへのサービスを良くする取り組みが中心でしたが、今後は“まちづくり”に波及させたい、佐藤さんはこう語っています。そして、「自分たちの住んでいるまち・温泉街を良くしていこう。それには観光従事者だけではなく、住民も巻き込んで“まちづくり”を促進する。景観だけでなく、住み良くするためのプランを挙げながら歩んでいこうと考えています」ともお話されました。

 私は、米沢の観光については、確かに観光地には多く観光客が訪れていると思います。しかし、ほとんどの方は観光地だけ見て帰ってしまうのではないでしょうか。「観光地だけ」つまり「点」の観光なのです。
 私は、「点」から「線」さらに「面」へと、広がりをもった観光開発が必要である、と考えています。観光客が、観光地だけでなく、例えば商店街に足を伸ばすなどして、観光客と地元の方とが触れ合うことができるすような仕掛けが必要だと考えます。私の観光に対する考え方の原点は「地域の方ひとりひとりが観光資源」です。


2003年11月11日(火曜日)朝晩曇り 最高9.9℃ 最低6.3℃

 米沢・置賜地域からは外れますが、上山市の話題を取り上げます。上山(かみのやま)市は山形市の南隣りの市です。温泉のまちです。中心市街地に位置する上山温泉(新湯)、市街地の南西方向に位置する高松温泉と大きな温泉街が2つあります。歌人斎藤茂吉の生まれたまちでもあります。東には蔵王連峰があり、四季を通じて観光客やスキー客でにぎわっています。“かかし”でも有名です。“全国かかし祭り”が秋に開催されています。今の季節、干し柿がつるされている屋敷を多く見掛けます。郊外には約40階の高層ビルが建っています。マンションです。山形市側に、遊園地“リナ・ワールド”もあります。現在、山形市との合併協議が行われています。
 上山市は1954年(昭和29年)10月1日、1町(上山町)5村が合併して市制が施行されました。その2年後の1956年、大雨による大水害に見舞われます。災害救助法が適用されました。そして、災害復旧を目的に市営競馬開催の指定を受けました。
 もともと上山の競馬は、1933年、上山競馬倶楽部が発足したことから始まりました。そして、1935年、第1回の開催が行われました。
 1958年、それまでの県営から市営となり、“市営上山競馬”の開催がスタートしました。上山市は“温泉と競馬のまち”になりました。上山競馬は、市の財政を潤しました。その“かみのやま競馬”、今日のレースをもって幕を閉じました。その理由は申すまでもありません。今日の山形県内のトップニュースとなりました。
 この経緯をみて感じるのは、馬事文化の貧弱さです。美しい姿で駆け抜ける馬。人と馬の触れ合い。人のリハビリ・社会復帰に貢献する馬。歴史の中で大切な役割を担ってきた馬。農業だけではなく産業全体にかかわってきた馬。このように、人間と深くかかわってきた馬には馬事文化が存在します。
 お馴染みサラブレッド。世界中のすべてのサラブレッドはトレーサビリティ(11月7日のダイアリーで説明しています)がとれます。世界中すべてのサラブレッドの牡系(父系)をさかのぼりますと、3頭の馬にたどり着きます。これだけでも、いかに奧が深いか分かります。
 17〜18世紀にかけて、より速く走る馬を求め、イギリスは東洋から約200頭の馬をかき集めました。その後、時間とともに、そのほとんどが淘汰され、残ったのが3頭なのです。ですから逆に言いますと、すべてのサラブレッドの父系を遡ると3頭に行き着くのです。この3頭を“サラブレッド3大始祖”と言います。3頭は、“バイアリー・ターク(1680〜1705)”、“ダーレー・アラビアン(1700〜1730)”、“ゴドルフィン・アラビアン(1724〜1753)です。上山で走ったサラブレッドもすべてこの3頭にたどり着きます。
 “競馬”と言いますと、多くの人は敬遠するでしょう。それは、ギャンブルとして見るからです。しかし、それは“馬事文化”の貧弱さを露呈しているようなものです。確かに、現実には競馬にお金をつぎ込みすぎて、破産したり、家庭崩壊を招いた、という例がいくつもあります。しかし、これも“馬事文化”の貧弱さを露呈したものとしか言いようがありません。
 私には縁遠い“競馬”なのですが、この程度のことは書くことができます。はじめから敬遠するのではなく、ちょっと調べますと、その奧の深さを知ることができるのです。
 日本の競馬場、最近は若い人の姿が多くなったと言います。しかし、その昔はオジサンばかりいたものです。イギリスでは正装でないと入場できない競馬場もあります。競馬発祥の地イギリスと日本の馬事文化の違いを端的に示した例です。
 山形県内のトップニュースにはなったものの、“山形記念・樹氷賞”というビッグレース(重賞レース・上山G1)が組まれていたにもかかわらず、そのレース結果は報じられていません。プロ野球で「大観衆が詰めかけました」とだけ報じて、試合結果を報じなかったらどうなるでしょうか。
 閉鎖になった“かみのやま競馬”、関係者の今後の身のふり方が気になります。しかし、開催すれば赤字が膨らみ続け、回収の見通しが立たない以上、閉鎖はやむを得ません。何と言っても、税金が投入されるのですから。
 血統が優れたサラブレッドは、億単位で取引されます。しかし、その馬が必ず走る、という保証はありません。これでは、庶民からすれば“馬事文化”どころではありません。お金があっての“馬事文化”では寂しいような気がします。
 しかし現実的には、ほかのスポーツでもいろんなことが起きています。プロ野球日本一になった“ダイエー”の身売りの問題、ナビスコ杯優勝直後の浦和レッズの監督解任劇、曙親方のK1挑戦などです。せっかくの“スポーツ文化”振興も、これでは水がさされてしまいます。
 皆さんも、ちょっとだけで良いですので、考えてみてはいかがでしょうか。


HOME         今のダイアリーに戻る

2003年11月上        2003年11月下