「なんだ これは〜〜〜〜〜〜!!!」
なにか果物ようであり、最初羅漢果かと思ったが表面は全く違う。
ゴルフボールより少し大きく、プルーンの様な感じでもある。
しかし堅くてつるつるしている。
「柿ですよ ○○さんの家に植えてある柿の木の実です。」
「うそ〜〜〜 これが柿????」
「黒い柿なんてあるの???」
確かに切ってみると、中には種が入っていて あの柿の色である。
しかも甘く食べられる。
さっそく取材に出向く。
そこは山形県西置賜郡白鷹町 ここは柿が多い地区でる。
昨年は 取り残された柿の実の写真を撮りに町内をかなりまわった土地でもある。
でも黒い柿なんて どこにもなかった。
そしてその黒い柿がある家に行く あったあった。
すごい光景である。
遠くから見れば、柿の木には見えない。
そばによって見てもまだ見えない。
(画像をクリックすると大きく はっきりと見えます。)
柿の木らしく、確かに数珠なりに成っている。
家の人に話しを聞くと
9月頃までは普通の柿と同じ様に青い実であり
段々と黒くなってきて、渋かったものが甘くなるという。
少なくとも樹齢150年以上の柿の木であり、
決して古いから黒いわけではないようだ。
明治元年生まれのお爺ちゃんが子供の頃には既にあった木であり、
その頃から黒い実をつける木であったという。
こんな木ばかりであったなら、名匠柿衛門はあの名声を呼ぶ事はなかったであろう。
このあたりでは、柿を全部取られないで少し柿を残したまま 冬に入る家が多い。
これは鳥達へのお裾分けであり、木に付く虫を食べてくれる事への感謝の気持ちでもあるという。
そんな土地柄でも異色の柿であった。
日本海側では、地場で産出する民田なす。内陸は長なすのおろ抜きの小なす。
そして南部は薄皮なすが主流になっている。
薄皮なすは、丸なすで名前の通り皮が薄いがぱっりっとした歯ごたえがたまらない。
夏はこれがあればもうおかずはいらない。
特に山形の夏はものすごく暑く、残りご飯を水で洗って、氷も入れた水かけご飯に
この薄皮なすがあれば、夏ばてなんてしないぞ。
今では夏の地場の薄皮なすだけでなく、冬場でも中国やベトナム・タイなどで作られた
薄皮なすを漬けたものが出回り、一年中食べられるが
やはり初夏からお盆までの地元産のなすの美味しさが一番。
そんな時は、どんぶりいっぱい食べてしまいます。
だから 山形は日本一の消費地になるんでしょう。
この私にとって最高の食べ物の薄皮なすを、
今追い越そうとしているのが泉州の水なす。
これも最高の美味しさですね。
あ〜〜〜もうすぐこんななすが食卓を囲むと思うと 早く来い来い暑い夏!
そんな山形でこんなお菓子を鶴岡市で見つけました。
なんとなすのお菓子です。
なすを甘くしてもので、へたまで食べられる。
しかも明治天皇献上品だって。
さすが日本一のなす消費県ですね。
信長が本能寺の変で非業の死を遂げ、長男信忠も死亡した。
そのため信長の次男信雄が、尾張・伊勢・伊賀・100万石の領主となったが、
豊臣秀吉と抗争し、処分され上野国(現、群馬県)2万石、
明和4年(1767)8代藩主信邦は、幕府を倒そうとする計画(山県大弐事件)に関係したというので蟄居を命ぜられ、
9代藩主となった養子(信邦の弟)信浮は高畠に移され、領地は陸奥国信夫郡(福島県)・出羽国置賜郡(山形県)となる。
文政13年(1830)10代藩主信美が藩役所を高畠から天童に移したので天童織田藩が成立し、明治維新まで続いた。
こんな事を私が知ったのも、ほんの5年前 それだけ山形でも知られている事ではない。
そんな中 さらに驚いた事に安藤広重の美術館が天童にあるという。
江戸後期 天童織田藩は深刻な財政難に陥っており、
江戸で有名な広重に藩のために肉筆画
(浮世絵師が絹や紙・板に直接筆で描いた作品で版画とは異なる)を書いてもらい、
借金返済や献金への褒美として与えたものという。
この様な作品群は「天童もの」「天童広重」と呼ばれていた。
こうした天童とゆかりの深い広重の作品を、
生誕200年を記念して 記念館が誕生したという。
なるほどね そういうわけで天童に記念館があるのかと、良くわかった。
そしてさらには、版画=元禄=江戸中期となんとなく思っていたが、さにあらず、
有名な東海道五十三次は1832年、「名所江戸百景」は1856年と
明治維新(1868年)の12年前という江戸も末期そのものという事であった。
作品も多く、月一で展示品が入れ替えられるという。
一度 広重の作品を見てみませんか?