「修験道と六波羅密(二)」


 在家の人々が行者となって仏道修行を志し、自然や万物に宿る生命の尊厳に目覚め、山岳登拝修行によって心身を磨き、六波羅密の実践に務めることが、修験道における菩薩道の実践でもあります。
今回は、六波羅密の一つ「尸羅波羅密」(しらはらみつ)について簡単に触れてみます。
 
 この尸羅とは戒のことで、現代社会に於ける憲法や様々な法律・条例・規則・諸団体で定める規約やスローガンにいたるまで、秩序を守るための他律的な意味と、他から規制されるまでもなく、自らの心の中で自らの行いを律する自立的な自戒の意味とがあります。ここでいう尸羅波羅密とは、心身を修め、心を正しく行うという、いわば善行の根本を意味するものです。

 仏法の戒法には、修験道での在家優婆塞(うばそく)の五戒から、比丘(びく)の二百五十戒までと、様々な戒が説かれております。基本的な戒の精神としては、次の十善戒が山伏行者として心得るべき善行の実践徳目かと思われます。

身口意(しんくい)の身について守るもの三つ
  1.不殺生戒(ふせっしょうかい)
  2.不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
  3.不邪婬戒(ふじゃいんかい)

身口意(しんくい)の口について守るもの四つ
  4.不妄語戒(ふもうごかい)
  5.不A酒戒(ふこしゅかい)
  6.不悪口戒(ふあくこうかい)
  7.不両舌戒(ふりょうぜつかい)

身口意(しんくい)の意について守るもの三つ
  8.不貧欲戒(ふどんよくかい)
  9.不瞋恚戒(ふしんいかい)
 10.不邪見戒(ふじゃけんかい)

 第一不殺生戒は、生きているものの生命を大切にすること、特に仏教では一切衆生みな仏の子であり、いかなる人々も同胞兄弟姉妹であります。従って御仏の子と思えば、かけがえのない生命の尊厳となり、慈悲の心ともなり、不殺生なる行いや心にも思ってはならないのです。

 第二の不偸盗戒は、他人を尊重するからこそ、与えられざる他人のものを盗んだり、欲したり、羨んだりしてはならない訳で、又、形あるお金や物だけでなく、他人の思想や学問、技術や特技に到るまで、他人の無形の尊いものにさえも、羨んだり、勝手に盗み取りや盗み聞きをしてはならないものです。ここにも他人に対する御仏の尊厳心が存在します。

 第三の不邪婬戒は、他人を尊重し、御仏の子として思うならば、自ずと清らかな愛情となるはずで、道ならぬ愛欲に走ってはならないという戒めです。

 第四の不妄語戒は、嘘や妄想などを口にして人々を惑わしてはならないという戒めです。

 第五の不A酒戒は、迷いの酒や思想に溺れて、なりふりかまわず自分を見失ったり、他人をごまかしたり、悩ませたりしてはならないという戒めです。

 第六の不悪口戒は、憎しみや反抗の心を持って、粗暴な言葉を使ったり、他人の悪口や過ちを言いふらしてはならないという戒めです。

 第七の不両舌戒は、己を自慢したり、ごまかしたり、親しい間柄を離れさせたりしてはならないという正直な心を常に持つことです。

 第八の不貧欲戒は、無理な欲望や羨望を起こさず、物でも心でも惜しみなく他人に分け与える心を持つことです。

 第九の不瞋恚戒は、腹を立てて激しい怒りで自分を見失ってはならないという戒めです。

 第十の不邪見戒は、邪見を起こさず、因縁の道理に目覚め、正しく物事を理解しようとする意味です。

 この三つの心(意について守る戒)が自我中心を離れ、公のために欲を起こすならば、貪欲は希望となり、瞋恚は怒りでなく正義を愛する勇猛の徳となり、邪見も清められて、御仏の智恵ともなる訳です。

これら十の戒法は、いずれも御仏が護持されている心であり、十善戒の実践こそ、善行の第一歩であろうかと思います。