「修験道と六波羅密」−小さな施しを−


 満ち足りた現代生活を眺めると、冷暖房完備、高級家具、高級車、豪華な食卓、高級ブランド服に到るまで、諸外国から羨ましがられるほど経済大国に成長した我が国ですが、それでも欲望が限りなく止むことを知らない現代です。

 この豊かな経済成長とは裏腹に、ゴミ処理問題、土壌や河川、大気汚染など、自然環境が著しく破壊されつつあります。又、青少年犯罪や奇妙な精神障害、集団不適応と人間関係の欠如、犯罪争議と、自然環境のみならず社会環境もまた汚染されつつあることは、多くの方々が指摘されていることです。

今や国際社会の中で生きる日本人として、誇りうるには、今何が必要なのか、これを修験道の立場から見て考えてみたいと思います。
 
 当山が歩む修験道は、今から千三百年前、役行者(えんのぎょうじゃ)によって開かれた日本独特の宗教であります。素朴な自然崇拝や山岳信仰と、お釈迦様の教えを中心とする祖先崇拝の仏教とが融合したもので、神や仏の区別なく、僧侶も在家も区別なく、自然を尊び、生きている日常の中で釈尊の教えを実践するものです。仏道修行を通して己の心を浄化し、自らの人格を磨き、修行を通して自らの験徳(生まれながらの特性)を世に貢献しようとする実践仏教なのです。

特に、修験道では菩薩道(仏への道)の実践を重んじるところから、次の六波羅密の実践を大切にします。

 六波羅密とは、布施(ふせ)・持戒(じかい)・精進(しょうじん)・忍辱(にんにく)・禅定(ぜんじょう)・智恵(ちえ)の六つを示しますが、いずれも心の浄化を顕わします。
 布施は、財施(ざいせ)・法施(ほうせ)・無畏施(むいせ)の三つに大別されますが、財施は人々に物やお金を惜しみなく分け与える心、法施は仏の教えなどを惜しみなく人々に施す心、無畏施は人々が悩み苦しみ、不安になっている時に相談にのってあげ、善導してあげる心です。
 更にこの三つの施しが出来ない場合は、次の七つの施しが説かれています。和顔施(わげんせ)・愛語施(あいごせ)・慈眼施(じげんせ)・房舎施(ぼうしゃせ)・床座施(しょうざせ)・捨身施(しゃしんせ)・心慮施(しんりょせ)の七つで、これは無財の七施と呼ばれております。

 ○和顔施は、相手を思いやる柔和な笑顔で人々に接することです。感情むき出しの怒り顔は慎むべきでしょう。

 ○愛語施は、相手を尊敬する心で、やさしい言葉で語りかけることです。命令や卑下する言葉は、人間の尊厳から逸脱することになります。

 ○慈眼施は、相手をいたわりと優しさを持って見つめるまなざしです。にらみつける怒りの顔や眼、羨む心の眼は避けたいものです。

 ○房舎施は、疲れ果てて困っている人に「どうぞ家で一休みして下さい」と、心優しく語りかける意味です。

 ○床座施は、乗り物の中で、老人や身体の弱い方が目の前に立っていれば、「どうぞお座り下さい」と、席を譲って上げる心です。

 ○捨身施は、人がいやがる事を自らすすんで行ったり、トイレ掃除でも重労働作業でも自ら率先して行う心です。

 ○心慮施は、相手を十分思いやり、相手の立場をよく理解してあげ、行動する心です。

 これら無財の七施は、いずれも相手を尊重し、大切にする心で、自分を取り巻く全ての人々に仏心が宿っており、人間の尊厳を説いたものであろうかと思われます。現代社会は、とかく自分さえよければ・・・、という利己的な風潮に流されておりますが、各家庭の中で、まず年輩の方々から、この七つの施しの一つでも実践して頂けるならば、子供や孫はその姿を見て、きっといつか同じように真似てくれる違いない、と信ずるのであります。和顔にしても愛語にしても、この小さな施しが家庭の核となって、波状の如く次第に広がり、心の浄化に役立つものと信じて止みません。

 生きている私達は、心豊かな子孫繁栄のために、自然界の尊い生命の神秘と、生まれながらにして持っている汚れのない人間の仏心を、日常生活に少しでも取り入れ、その実践を通して、心の浄化と環境の浄化に務めていかなければなりません。決して仏道は、亡くなってからのものでもなく、僧侶だけのものでもありません。日々の生活の中で実践し、物に勝る精神(心)文化を育てていかねば、と思う次第であります。