米沢藩の中興の英主、松平定信をして、 三百諸侯中随一の賢君と言わしめた。
細井平洲(1728〜1801)に師事して折衷学を学び、 実学にそって善政をしいた。
いち早く洋学、西洋医学の導入を決断し、 財政窮乏の折りにもかかわらずその勤学制度を創設し、 藩医高橋桂山を長崎の蘭方外科医吉雄献作のもとへ、 藩医堀内忠明らを江戸の杉田玄白の塾に、 宮崎元長らを大槻玄沢の蘭学塾へ派遣して修学させた。
また医学館『好生堂』を建て医師たちに教育、研修の場を提供した。
自ら命名した好生堂の「好生」は、 『書経』の一節「好生の徳は万民に洽(あまね)かし」 に典拠したものといわれる。
鷹山は、また高価な医療機器や洋書を購入して好生堂に 下付したといわれる。
また江戸の本草学者。佐藤平三朗を招いて薬草の栽培、 製薬方を伝授させるかたわら、 備荒食物を研究させて『飯糧集」『かてもの』の頒布に結びつけた。
なお勤学制度は藩費助成による内地留学制度のことである。
明治4年(1871)の廃藩置県の際、全国の272藩の医学教育施設として、 藩校に医学科を設けていたのが36藩、 藩校と独立に医学校を設けていたのが26藩、 このような設備によらずに医学教育をしていたのが21藩、 医学研修のため他国遊学の制度をもっていたのが16藩といい、 これらの医学教育で蘭方医学を採用していたのは18藩、 洋学(英、仏、独)の教育を採用していたのは17藩であったという。 僻遠の地米沢と、同じような環境の他藩に先がけて西洋医学が勃興したのは まさに鷹山の炯眼に負うところが大きい。
なお幕末から維新期にかけて米沢藩では蘭学から英学への転換が図られた。