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堀内素堂と幼幼精義

堀内素堂(享和元年―安政元年(1801−1854))は 蘭学を青地林宗に、蘭方医学を杉田立卿に師事し、22歳の若さで藩主の侍医に抜擢された. その蘭学塾は100名を越す門弟で賑わったといわれる. とくに坪井信道とは親交が深く、互いにわが子の教育を相手に託している.

素堂の業績で特筆されるのは、ドイツ人医家フーフェランド(Christoph Wilhelm Hufeland1762〜1836)の『内科便覧』ともいうべき著作の蘭訳書のなかで小児に関する部分を日本文(漢文)に重訳して『幼幼精義』として刊行したことである. これはわが国における最初の西洋小児科書の発刊で、わが国の近代小児科学の創始と樹立に大きく貢献した.

素堂は吾妻山中で採取した薬草「依蘭苔」について、長崎でシーボルトに師事している同郷の蘭方医伊東祐直を介して、シーボルトの鑑定を受けている. これは彼の学者そして臨床家としての真摯な姿勢をもの語るものであろう.

また蛮社の獄(1839)で投獄された高野長英が脱獄して米沢に潜行したとき、伊東祐直と共謀してその逃亡をたすけたことも知られている.

素堂は俊才ながら、その誠実な人柄によって多くの天下知名の人物を親交を深めた. 師の杉田立卿、青地林宗、古賀穀堂をはじめ、江戸の3大医家といわれた坪井信道、伊東玄朴、戸塚静海、 そして幕府医学館の蘭方外科医桂川甫周、さらに湊長安、小閑三英、高野長英、鈴木春山、緒方洪庵、青木周弼、杉田成卿、 その他佐久間象山・大槻俊斎、箕作阮雨、林洞海らの蘭学者のほか広瀬旭荘、安井息軒、塩谷宕陰のよう、な漢学者の名もみられる.

なお、『幼幼精義』のほか『保嬰瑣言』『医理学論』『医理学源』などの著書がある.