郷土が生んだ傑出した医家のひとりに西野忠次郎博士がいる。 明治、大正、昭和の三代にわたって活躍した内科学の権威で、慶応義塾大学名誉教授、日本学士院会員になり、国立東京第二病院(現、国立東京医療センター)院長の現職のまま、昭和三六年、八三歳で他界した。 特旨をもって正三位勲二等瑞宝章に叙せられ、厚生省葬が行われた。
富山県に発生した奇病を「日本脳炎」と診断し、その病因を検索するとともに治療方針をもって確立大正一三年)。
山形県庄内地方に発生した熱性疾患について剖検病理解剖)のすえ、わが国はじめての「発疹チフス」を確認(大正三年)。
狂犬病の予防接種のあとで重篤な副反応が出現することがあることを警告(明治四二年)。
草津温泉近郊に在住の「らい(ハンセン病)」について、鼻粘膜分泌物の細菌学的検索によって、ライ病伝播上の意義について発表(明治四一年)。
「ジフテリア」保菌者の感染源としての意義を究明し、消毒法の改善、血清注射の適応について提言(明治四三年)。
「細菌性赤痢」から得た材料で、二つの異型菌を分離(大正二年)。
独自の新法で「B型パラチフス」と「鼠チフス菌」の分離に成功(明治四四年)。
晩年に出版された『臨床四十年』『臨床五十年』『続臨床五十年』は臨床医にとって座右の名著とされた。
西野には実子がなかったので、義弟重孝(宮内庁侍医長)を養嗣子とし、重孝の娘たちをほんとうの孫のように可愛がつた。
重孝博士「父は確かに偉かったが、身内を誉めることは、はばかられるので」と前置きして、その生い立ちと性格の一端について、内部からの楽屋落ちの話として、次のように語った。
米沢藩は裕福でなかったせいか、藩の気風からか、明治になって軍人を志す人が多かった。現に親類に海軍中将(注・大湊直太郎)がいた。
父は晩酌のおりなど「もし西野家を継いでいなかったら、軍人になっていたであろう。そして今ごろは戦争指導者として処刑されていたかもしれない。
人の運命は全く予測し難いものだ」としばしば述懐した。
とくにA級戦犯として巣鴨に収容されていた畑俊六陸軍大将が、病気になって国立東京第二病院(以下東二病と略)に移されて入院したとき、その姿に自分の影を投影して「結局、俺は幸福だった」としみじみ語った。
父は事に当たって慎重であったが、決断が早く、ときにはあわてものと自認する場面があった。
孫たちを連れて塩原に旅行したときのこと、キャンデーを取り出そうとしたが、ボストンバックのファスナーが開かなくなってしまった。
苦心惨憺するが、どうしても開かない。隣りの席の紳士がみるにみかねて「ちょっと僕に見せて下さい」と援軍を出してきた。
だが父は孫たちがハラハラしながら見ている前で一向に耳をかそうとしないで、懸命にファスナーと取り組んでいた。
うさん臭いと思われていることに苦笑しながら差し出した紳士の名刺には、なんと「○○製鞄KK社長」という肩書があった。
「その鞄は私の会社の製品なんです」と断りながら、スルスルと簡単に開けた。
帰宅してから「あのときは鞄を奪られやしないかと思ったんだ」と笑いながら語った。
明治の人らしく伊勢神宮を参拝したときのこと、まず外宮に詣で、次いで内宮に向かったが、広い神域で行けども行けども到達しない。
ふと左側に立派なお宮があって先客が三拝九拝している。そこで内宮と思いこみ、その拝殿に参殿して恭しく拝礼して帰ってきた。
のちに勘違いに気づき、改めて内宮を詣でることを決意したが、多忙な公務に紛れて終に実現しなかった。
嗣子の同僚でとくに親密の仲だった入江相政(宮内庁侍従長)が学生上がりの二五、六歳の頃、箱根温泉で偶然に西野と顔を合わせた。
この初対面の印象について、嗣子に「世の中には、こわい顔の人がいるものだと思った」と率直に打ち明けたところ、この評言を数倍上回るエピソードが重孝の口から返ってきた。
西野の患者だった若い女性が「あんなに偉い先生だと知らなかったら、出会ったとき、思わずがま口を手で押さえるほどこわい顔」と言ってのけたという。
だが入江は、半白のゆたかな髪を波打たせ、米沢弁でボソボソ語りかけるのが、なんともいえない味があったと回想する。
そして西野の高弟の野並浩蔵博士(東二病・副院長)の「先生がやると薬は私どもの三分の一量で十分に効いてしまうんです」という証書を引用して臨床の極意に言及している。
また、ユーモアを交えて「おそろしい顔をして病室に入っていかれただけで、患者はあらまし治ったことであろう」と臨床の難しさ、尊さに付言している。
小泉信三博士(学士院会員、慶大名誉教授、慶大塾長、文化勲章)は、西野について「一の学を究めた多くのすぐれた学者のように、自ら多くを知ると感ずるよりも、自ら甚だ知らないと感ずる人であった」と評している。
小泉が塾長のとき、西野が医学部長であったことで大いに意を強くしたといわれる。
小泉は昭和二〇年五月、戦災で重傷を負い慶大病院に担ぎこまれた。
主治医たちは、病状の推移について出張中の西野と緊密な連絡をとり合いながら万全を期した。
その甲斐あって辛うじて一命をとりとめたが、小泉はこの労を多として、世話になった医師たちを年一回、自宅に招いて夕食を共にするのが恒例となった。
酒豪の西野はあまり酔うことはなかったが、晩年のある日のこと、その夜は酒の回りがはやく、しきりに故郷米沢のこと、とりわけ実家の母親のことを語り、感涙にむせびながら声をつまらせた。
その話を聞いて小泉も落涙し声を呑んだ。やがて八○歳の老翁が生みの親のことを語って泣き、同じく七〇歳の老人が、それを聞いて貰い泣きしたのであった。
熊谷岱蔵博士(学士院会員、東北大学名誉教授、東北大総長、文化勲章)は「西野君はまさに大国手であった」と短評した。
また、西野を知る人はひとしく「人の子として至孝。中学時代の往復三里(一二キロ)の徒歩通学、帰ってからの労働(農事や家事手伝)、夜は賢母の訓戒、これらが将来の大成の基礎づくりにつながったとみている。
西野は豪放かつ細心の両面をもっていた。地方回りはほぼ一〇年に及び、山形県と山口県で病院長を経験したが、馬渕鋭太郎知事は西野に心酔し、自分が山口県知事に転任するとき、西野を引っ張って山口県立病院長に据えた。
ちなみに西野は県庁に話し合いにゆくとき、門外で車を降り、徒歩で庁舎の玄関に入った。知事はひそかにこれを観察していた。
意気投合すれば損得を計算しない西野の潔い性格をあげているが、熊谷は「地方に出ても、その土地でしかやれない立派な仕事をするところに彼の非凡さがある」と賛辞を呈した。
北里柴三郎博士(学士院会員、北里研究所長、勅選貴族院議員、男爵、日本医師会初代会長)は、早くから西野の資質を見抜き、その大成を見越して「山形県人は実直である」と評しながら、あえて田舎の病院長を体験させたといわれる。
北里が中心になって慶大医学部が創設されると、西野は北里門下の臨床の第一人者として医学部教授(内科学主任)として招かれ、北里が他界すると、その衣鉢を継いで医学部長、病院長になって内科学会に重きをなした。
西野の相撲好きは、熱烈な大相撲ファンであった。北里の影響といわれる。北里は相撲界に対する貢献の代償サービスとして協会から枡席の提供を受けていた。
西野がもっとも熱中したのは戦前から戦中にかけて六九連勝の双葉山が昇り坂にあったころで、激務の合い間を縫って砂かぶりの席で観戦していた。
先代時津風理事長(横綱双葉山)は「昭和二五年、横綱審議委員会が発足したとき、医学会を代表して西野先生に委員を委嘱したところ、御高齢にもかかわらず御快諾を得ることができた。
先生は平素は大声をだされることなく、温厚な老紳士の風格であった。
横綱審議委員会の難しい会議で興奮した議論になる場合でも、先生がもの静かに発言されると自然に座が落ち着いた」と回想している。
記録によると、鏡里が横綱に推挙されたときの委員会が西野の最後の出席であった。
最近亡くなった速攻の北の洋(元関脇、元大相撲解説者、緒形昇氏)が三段目の頃、西野の好意で一年半の肺結核の入院治療の末、見事に再起を果たしたことはあまり知られていない。
西野は最後はテレビで大相撲の観戦がすんだところで脳出血の発作で倒れた。
西野らしい大往生であった。
阿部正和博士(慈恵医大学長)は、戦後、東二病で内科臨床について西野の手ほどきを受けた。
まず臨床医の、心構えについて「臨床医は腰が重くてはいけない。
要に応じて気軽に病室に行くべきである。
勝負事はできるだけするな。
するなら勤務時間外に限れ。
看護婦から依頼があったら、ともかく病室へすっとんで行け。
これが臨床医である」と諭した。
次に「臨床医は謙虚でなければならない。
そして直感的、理論的なセンスも重視されるべきである。
これらを伸ばして育てるのは剖検(病理解剖)の経験を積むだけであることを忘れてはならない」。
また、「高価薬を使わなければならないケースか、しっかり見きわめるべきである。
患者を救おうとして経済的に患者を殺してはなんにもならない。
とくに新薬は高価薬となりやすいので、新薬の適応について、より慎重でなければならない」と戒めた。
阿部が母校の慈恵医大に教官として招かれたとき、西野は「もう少しここにいると恩給がつくはずだ。
若いうちは恩給など眼中にないかもしれないが、年をとってくると、その有難みがわかってくる」と助言した。
去ろうとする人間の将来の生活面にまで気を配る西野の大きさに打たれたという。
阿部は後年、多くの学生や医師たちに「医の倫理」「医師の生涯教育」について説く立場になるが、かって西野のもとでの体験が、指導内容の基本になったといわれる。
弟子思いの西野は、門下生が教室を離れて他に赴任するとき、いつも一風変わった励ましのことばを贈った。
「もし先方が約束を違えて理不尽な扱いをするようだったら直ぐに教室に戻って来い。
後始末は一切おれの責任でやる。
女房にはいつも東京までの汽車賃を用意させておけ」というようなものであった。
西野は八三歳の高齢で他界するまで、現役をつづけたほど壮健であった。
その間、ことさら長寿の法を説くことはせず「ただなんとなくここまで生きてきただけ。
やはり親から譲りうけた体質がものを言うようだ」と淡々と語った。
内科学の権威でありながら少しも気どらなかった。
恩師の北里の三〇回の墓前祭のとき、生前親交のあった人たちによる座談会が開かれた。
北里の身内のひとりが西野に向かって「一体霊魂というものがあるものでしょうか」と尋ねたところ、西野は「細胞が死んでしまうと何も無くなってしまう。
しかし先生が逝くなって三〇年になるが、追悼会で皆さんのお話を承ると、丁度先生がお出でになっていると同じ気分にになるから、まア霊魂というものがあるのではないか」と答えたという。
このさり気ない会話のなかに西野の死生観の一端がうかがわれる気がする。
最後に西野の生き様にもっとも大きな影響を及ぼしたというエピソードについて述べる。
塩田広重博士(学士院会員、東大名誉教授)によると、西野が北里の指示で草津のらい(ハンセン病)の調査に出かけたときのこと、患者に来てもらって研究をはじめた。
数日後、ひとりの患者が「君は藤田君ではないか」と尋ねたので、大いに驚いて「僕は藤田だが、君は誰だい」と反問したところ「自分はこんなふうになったから誰であるかわからぬであろうが、僕には君がよくわかる。
自分は他人にわからぬように名前を秘してここに来ているので、名前だけは聞かんでおいてくれ給え。
以前は君と机を並べておったひとりだが、君は医師になられ、自分は業病の患者となって調べられる立場にある。
どうか、しっかり勉強して偉い人になってくれ給え」といわれて西野は長嘆しながら「あア、世の中は幸、不幸の差がこれほど大きいものか。
自分は今後いかなる不満があっても不平などいってはならない」と固く心に誓ったことを打ち明けた。
これを聞いた塩田も生涯忘れられないほど感動し、銘記したという。
世の中には、なんら悪いことをした覚えがないのに、不幸のどん底に陥る宿命の人が少なからずいることを忘れてはならないのである。
昭和三六年七月六日逝去(顕徳院殿国手忠鑑大居士)。
主な参考文献
「西野忠次郎先生の想い出」
小泉信三、入江相政他慶応大学医学部内科同窓会
「臨床五十年」西野忠次郎中外医学社