〜 「理科離れ」について・自分の経験を踏まえて 〜  
(大学院で研修時の課題レポートから抜粋)


1, はじめに
 「理科離れ」の原因は理科という教科の構造自体にあると思っている。目標を例にすれば,指導要領で知識も能力(技能や思考)もともに重視され,手先と頭を使って学び,知識も獲得しなければならないことになっている。ここで実験観察の質が問題になり,実際には,生徒の意識の中では,授業で行う実験観察と知識を学ぶことが,別の活動になってしまっている。数学やいくつかの技能教科では,能力目標を中心にして知識や価値の目標を周辺に配することで,社会科などではその逆の構造で,すっきりした学習活動を組んでいる。理科に状況が似ているのは国語だろうか。教材のもつ価値に触れさせながら,言語に関する能力を育てなければならない。小学校の学校研究で,圧倒的に国語が取り上げられているのは,国語のもつ構造的な難しさに多くの教師が気付いているからである。理科が実験の技能的な面倒さから教科担任や交換授業の対象となり,一部の教師の手に委ねられているために,国語ほど難しさが知られていないだけ,理科の状況は悲観的である。
 このことは読み物でも実験手引き書でも知識辞典でも問題集でもない,教科書の中途半端な編集にも現われているし,実験セットなどの教材の開発が汎用性と簡便性の間で揺れ帯に短し・・・の状態に陥っていることにも現われている。教師の教科観によって講義と暗記強要による授業も,拡散的な探求風授業も共存している。これらの状況のいずれもが
理科をつまらなくしている。理科が性に合わない生徒はますます理科嫌いになり,理科が好きな生徒は芽が伸ばせない。
 理科離れは理工系大学への進学者数の減少をきっかけに言われ出した。そこで本稿では上記の理科の構造上の問題に起因する,大多数の生徒の「理科嫌い」については論じず,同じ状況下で芽をつまれているであろう一部の生徒を,「理科好き」にすることで,それらの生徒の理科離れをくいとめる為の提言をしたい。与えられた課題が「自分の経験を踏まえて」ということなので,都合よく理科好きな私自身の,これまでの理科もしくは科学との付き合い方をもとに,以下進めることにする。

2, 理科・自分史
 私は「理科」という教科が好きな少年時代を過ごした。小学校では金曜日の一二校時が二時間続きの理科で,時間割表の金曜の一列が文字通り金色に輝いて見えたものだ。理科だけ特別の先生(教科担任)なのも,金色の輝きを増す要素だった。
 実験が好きで,家に帰ってからも友達を引き込んで「実験遊び」に興じた。将来は科学の先端を学び大発明家になりたいと思っていた。もちろん私の発明品は仮面ライダーの様な正義のヒーローが身に付けて,悪の軍団から地球を守ってくれるわけで,白衣姿の科学者である私が,空を飛ぶ「反重力ブーツ」を付けて試運転している様を空想しては,うっとりしていた。
 理科の実験がそんな夢を実現する第一歩だと信じていた。だから,人より手際良く実験することや,期待される結果に向かって実験を調整しつつ行い,先生が喜ぶ(発表を要求される)結果を導くことに真剣に取り組んだ。もちろん「結果がどうなるか」などということにワクワクする程不勉強ではなかった。
 授業ではないが,フィールドでシカを見ていたりすると思い出す事がある。何年生のことだったか,遠縁のおじさん(お兄さん?)が夏休みの研究を見てくれた。当時大学院を終えて東北大学の助手をしていた人で,マーキングしたアリを二人で一日中じっと見ていた。今でも「研究」というと,動物にマークを付けてずっと追跡観察することだ,というイメージからぬけだせない。
 中学校の理科担当の先生は,授業そっちのけでライフワークらしい紅花研究に熱中していた。いくつかの特許を持つことが自慢だが,親からは「教科書の教材で授業をして」と文句を言われ続けていた。そんな先生が私にあからさまなヒイキをしてくれて紅花研究の話も良くしてくれた。最近はあまり伺っていないが,初任校では紅花栽培と紅花染めを実践化し,「べにばな先生の教え子が教師になって実践を引き継ぐ」などと,NHK全国版の道徳(!)の番組になったりもした。
 当時は英数国の三教科入試だったためか,理科は比較的余裕のある進め方ができたようで,植物の単元は当然ながら,酸アルカリの授業が紅花(染め)で行われたりもした。教壇に立つ先生は紅花染めのピンクのスーツを着ていたりして,私は大喜びだが,他の生徒特に女子生徒からは人気を失っていった。
 高校は理数科だった。普通科より高い偏差値が求められるという,変なステータスのようなものがそこにはあり,仲の良かった二人の友達がそこを受けるというので受験を即決した。しかし高校の授業そのものは,理科好きの私でさえ面白いものではなかった。
 しかし高校時代は「私の理科」の一つの転期ではあった。二年生のあるとき山道で一組の親子に出会った。子供は道端の花に興味を持ち,母親に話しかけたが,母親はその言葉に共感せず,歩を止めたことを叱り付けた。高校生の私は,多分一般的は大人の反応であろうその母親の態度に憤り,花(自然)に価値を見てとる視線の細さ,子供の成長に資する親としての感性の貧しさに愕然とした。なんと私は「自然を題材にした親と子の教育」に妙な使命感を感じ始める。これを転回点として興味は生物に偏っていくが,“物理は赤点だが生物はトップ”を誇りに,理科好きは続く。
 今西錦司の本に傾倒し生態学が学びたくなるが,選択の生物は希望者が二人だけのため早朝の特別授業になった。一緒に生物を受けた友達とは,夜中にホタルの交尾を観察にいったりした。理数科には卒業研究があった。生物の先生のテーマを手伝う格好で,ヨーロッパカブトエビをしたのだが,これは楽しかった。受験期真っ盛りで,医学部を受けるやつらは研究をないがしろにして受験勉強をしていたが,私は理科準備室に入り浸たっていた。
 高校の友達は私が某大学の理学部に進んだと思っているらしい。受験直前までそう広言していたし,懐かしの共通一次テストもそこそこ良い線いっていたからだが,結局私は山形大学のしかも教育学部を受験した。受験直前に先輩から伊藤先生の「シカ研」を紹介されたのが,志望変更の決め手だった。なんといっても卒業後もそこで生活しようと考えている地元の自然をフィールドにしたかったし,今西錦司の影響で(今西自身は水生昆虫の研究をしたのだが)サルや野生ウマのような哺乳動物がしたかった。研究者に憧れていたが,進学できない場合でも教育学部なら教師になればいい。地元のフィールドで調査を続けるには,教師という職は魅力的であった。
 専攻科では社会教育の枠のなかで,自然教育のありようを考えた。指導要領という足枷に動きを制限されている学校教育の中で,理科教育も窮屈な展開しか期待できないと考えたからだ。本来の自然・動物に関する教育は「学齢期の社会教育」が担う以外ないという信念は,教職十三年を経た今も変わらない。
 そして私は理科教師になった。初任校は文部省の「特色ある学校十二校」に選定され,ソニー理科教育資金の全国最終審査に三回残ったという,とびっきりの理科先進校であった。二校目では県理科研の会場校として理科の研究を進めた。どちらも学校をあげて理科教育に取り組み,理科好きな教師と理科大好きの子供たちであふれていた。

3, なぜ私は理科好きなのか
 好運にも私はずっと理科好きのまま,理科教師になった。なぜ,私は理科が好きだったのか。そのきっかけは何か。危機はなかったのか。
 私の少年時代,急速に普及していったテレビでは,科学を魔法のように万能かつ夢のある姿で映像化していた。少年向け番組のほとんどが科学ものであった。少年雑誌でも二十一世紀の生活とか,宇宙の話題など,科学を魅力あふれる方法として描いていた。アトムにも鉄人28号にも仮面ライダーにも丸でダメ夫にも,白衣の「博士」が登場していた。そして私の前にその「博士」号を持っているという人物が現われ,「研究」の仕方を教えてくれた。
 私の理科好きは,授業の中で行われる実験や観察が,「科学」や「研究」と似た勉強であると感じ,「博士」への道であると思ったことから始まったようである。
 私が理科好きなんだなあと本当に意識したのは,中学校でみんなが嫌う理科の先生がヒーローに見えたときである。教師をしながら自分の研究を進め特許を持つに至った彼は,同じ学校にあと二人いた理科教師とちがって,いつも白衣を着ていて「博士」のようだった。
 ところで私の周りにも理科が嫌いになっていく多くの友人たちがいた。時期は中学校。担当の教師が(私以外には)人気がなかったことも一因だろうが,一年生の時に「力の分解合成」と「原子価」でつまずいた者が,二年生の「電流」でとどめを刺されるという図式は,自分が生徒の時に感じていた。なぜと言って,それらの単元で内容が理解できたことが“得意”だった記憶や,友人に教えてあげた記憶があるからだ。結局理解できないから嫌いになるのであり,モデルや数式で説明され,それを聞くだけで理解せよと強いられ練習問題で即(理解の早さの違いを認められずに)評価される単元が,嫌いになるのである。
 私にもそんな危機はあった。高校で細分化した教科に意義を見い出せないでいたとき,物理の教師は「入試にでるぞ」を口癖に,問題練習中心の授業ばかり。それまで最も科学らしくて,最も得意で,最も好きだった分野が,急に無意味に思えた。意義ある難解さは学ぶ喜びを生むが,無意味な難解さは学ぶ意欲を失わせる。
 生物の先生はカブトエビの研究で,多くの論文を雑誌に発表していた。いつも理科準備室で顕微鏡をのぞいていて,やっぱり幼少より憧れの「博士」の風貌を持っていた。私は生物を,教科の範囲を超えて深く学ぶ(普及書の読書や遊びのような自然観察だが)ことに熱中することで物理への失望を埋め,天秤を「理科好き」に傾かせ続けた。
 本を通してではあるが生物学はすばらしかった。駆使されている科学の手法が見事だと思った。ヒーローの武器には応用できなくても,生物学は「科学」だと感じたし,森や花やサルを知る事の方が,ヒーローの武器より興味あるものになった。
 中学,高校で私を「理科好き」に留めたのも,やはり「科学」への憧れと「研究」の楽しさ(楽しそうさ)だったように思う。そしてやはり,自分の研究を大切にする教師の姿に「博士」という準ヒーローを重ねていたのだろう。

4, 理科好きをつくる
  以上の私の経験から,理科好きな生徒を育てるために,まず「科学」への夢を持たせたいと思う。とかく核の問題や環境破壊など,マイナスの方向で科学が語られることの多い時代になってしまった。このいいぐさは“科学は万能で夢の方法論である”というそれまでの認識へのアンチテーゼだったはずなのに,である。そして子供たちは科学に夢を持てなくなった。科学が未来をひらく有効な方法であるという事を,冷静で客観的な目でとらえ,熱く語る教師が必要に思う。
 次に,理科教師が自分のライフワークとして研究を続けることだろう。内容的に本格的でなくとも,自然の真理に向かって教師自身が進もうとすることは,教師と生徒が同じ方向を向いてともに学ぶことである。生徒は教師の姿を見ながら,研究の面白さや楽しみに気付いていくだろう。「博士」の風貌とはいかなくても,教師は将来の科学者候補たる生徒の,最も身近な道標でありたい。
 最後に,「研究」にどっぷり浸る機会を生徒に与えたい。理想としては各自が自由なテーマで,好きな時間に研究することだが,現実の問題として考えれば,選択教科の時間や総合学習の時間をどれだけ確保できるか,といった話題がこれに関わってくるかもしれない。理科の授業は「研究」の薫りのするものにしたいし,授業の中で科学の方法を少しでも伝えるようにしたい。ここで方法というのは,私の経験の中でのマーキングやコドラートの考え方のようなものである。

4, おわりに
 私は理科好きだが不得意な分野もある。教師として理科好きな生徒を育ててきたという自信もない。私と同じ様な経験を持てば,私程度には理科好きになるだろうという前提そのものが不遜である。しかし「研究をすることは楽しい」ということを教師が感じ,生徒に伝えること,もしくは生徒にも感じてもらうことが,どんな学習理論よりも理科にとって大切なことだと切に思う。流行の学習理論に振り回されがちだが,理論研修以上の時間を自分の研究に振り当てたいものである。