卓球の扉 





このスポーツ、やっていたとはあまり大きな声で言ったことがない(笑)
ひとむかし前は卓球=暗いというイメージが誰にもつきまとっていたからだ。

卓球少女「愛ちゃん」こと福原愛ちゃん(MIKI HOUSE)の出現に
よって、なんとなく世間に知られるようになったのだが
それまでは
暗いという代名詞にもなるスポーツだったのだ。

DANCEの扉で少し書いたような気がするが中学に入学したら真っ先にやりたい
スポーツがDANCE系だった。ところが、不幸にも体操・新体操のクラブは
こんな田舎の中学にはなかった。
正直な話、選択の余地がないほど
運動クラブはなかった(笑)

そこで、数少ない中から選ばれたのが「卓球」だった。ところが、我が中学は当時
「バレーボール部」が全盛だった。顧問の先生がスパルタで有名で、そのお陰で
私が在籍していた三年間は、県大会は常時出場。果ては東北大会というチームだった。
そのため、それ以外の運動クラブはあってもなくても同じようなレベルで、所詮町大会優勝、
地区大会レベルだった。あ、そうそう野球部も強かったなぁ。東北大会準優勝したっけ。

その頃の私はというと、指導者もいない卓球部で、有り余るエネルギーをもて遊んでいた。
しかし、それほど卓球に情熱を傾けていたわけでもなく全く惰性で部活をやっていたので、
実力などつくわけもなく個人戦の成績は、いいとこ二回戦止まり。
ダブルス町大会3位、そんな程度だった。

そうそう、余談だが卓球の応援はむやみに声を出したりしてはいけない。
そのため、スマッシュが決まったり相手のミスで点が入った時
点の入った方の人が自ら声を出すか、応援の人が決まった形の拍手で
その喜びをあらわす。そのへんが暗いと言われる所以かもしれない(笑)
「よし」とか人によっては「はい」とか「よっしゃ〜」とか聞いていると結構笑える声を
発声する人もいた(笑)勿論、何も言わない人もたくさんいます。
しかし、サッカーなどのGOALシーンを見るとなんて派手なパフォーマンス。
卓球なんて、せいぜい小っちゃく「ガッツポーズ」だもんなぁ。
やっぱ、暗いって言われるわ〜(笑)


さて、無事に高校に入学した私は汽車通(電車なのだが、およそ電車とは呼べない
車両だったのでみんな汽車と呼んでいた)で、遠距離通学だった。交通の便なんて
悪いどころの騒ぎじゃない(笑)そのため、汽車通組の運動部はとても少なかった。
ほとんどが文化系の部に所属していた。私もそうするものだと思っていた。

ところが、また眠っていたものがムクムクと目覚めてくるのである(笑)
仮入部の時にはしっかり「卓球部」にいた。仮入部の初日、いきなりランニングと
基礎トレーニング。しかも、超ハード。近くの上杉公園を何周しただろうか?
我が高校は、当時運動部はほとんどが強く、県大会出場は当然という学校だった。
(今はフェンシングが全国優勝レベルらしい)当然、練習は厳しい。
その中でも卓球部は厳しいと評判だった。

一緒に入部した仲間は初日のハードなトレーニングに驚き、次の日には半分に
減っていた。そして、一人去り二人去り一ヶ月も過ぎた頃には
もう6人になっていた。本当に基礎体力をつけるのが目的で毎日毎日、ランニングと
腕立て・腹筋・倒立・空気椅子素振り・球拾いをやっていた。

この「卓球部」女子だけの高校のせいもあるが特に上下関係が厳しいので有名だった。
「先輩」というのが、これほどまでに威厳のあるものかと初めて知ったものである。
一年生は毎日の行動を二年生の先輩にチェックされ日々練習の後に正座させられ、
ありがたいお説教をいただく。代々そうやってきたらしい。
だから、一年生にとって三年生は「神様」のような存在で
なかなか口など聞けるものではなかった。

たまに、卒業した先輩が指導にきてくれる事があったが顔は知らなくても
「大先輩」なのである。そそうがあってはいけない。必死の応対をしたものだった。
「お荷物お持ち致します」。イスを運んできて「どうぞ」こんなことは当たり前に
行わなければいけなかった。今思うと、ちょっと笑えてしまうのだが、当時はとても真剣だった。



3年生が県大会を終了するとやっと台について、ボールを打たせてもらえるようになった。
(一応、進学校のため県大会終了の6月後半ぐらいには事実上の引退をするが、
インターハイ出場者や国体予選もあるので、実際は個人的に部活に
参加している人が多くいた。)しかし、とにかく基礎練習が続く。
ここで私は、中学の時の我流の素振りをめちゃくちゃけなされまずはフォームを
直す事からはじめろと言われる。卓球は、「ペンホルダー」グリップと
「シェイクハンドグリップ」に分けられるが、身長やタイプなどによって型も決まってくる。
私は、身長がなかったこともあり中学からやっていた
「ペンホルダー」をそのまま引き継いだ。

身長がない分、小回りがきくということで「前陣速攻型」に決められた。
卓球には、この型やラケットの選択・ラバーの選択なども勝敗に大きく左右するから
侮れないのである。私のラバーはやはり定番だったが、当時人気の「スレーバー」だった。
(今も根強い人気らしい)ラバーによって、球の回転が変わったり
タイミングをずらしたり出来るので、かなり重要なアイテムとなる。

一ヶ月で6人になってしまった一年生は結局3年間6人で頑張り、結束も固かった。
今思うと、この程度のトレーニングに耐えられないものは3年間続くはずがないという
過去の実績からふるいにかけられていたのかもしれない。とにもかくにも、
それで残った6人なのだがその中の3人は、全国レベルを経験している
中学からのメンバーだった。最初の24人の中には、勿論この中学から
たくさん入部してきたのだが名ばかりとはいえ進学校ということもあって、
学業優先を理由に早々と退部していった。

そして、はじめての夏合宿が始まった。合宿所は、学校のすぐ裏手にあったのだがなかなか
OLDな建物で、お化けでも出そうな雰囲気さえあった。でも、お化けよりも恐いのは
先輩だった(笑)引退してすぐの合宿なので、3年生も全員顔を出す。
大先輩には合宿お知らせのハガキを書くのでこちらも大勢お見えになる。

余談だが、この合宿中何が辛かったか・・練習やトレーニングなどは辛いのは
当たり前なので一日中練習漬けでも、こんなもんだろうと思っていた。
それよりも辛かったこと。。。合宿中に、先輩方からありがたい差し入れが
続々と届いた。その中でも、恒例・定例となっているものがあった。
米沢市民なら必ず知っている「岩倉まんじゅう」 ごく普通のおまんじゅうなのだが、
外側の生地が酒蒸しされたお酒の香りがほんのり漂うおまんじゅうなのである。
私は、当時から「あんこ」が苦手だった。しかし、先輩からの差し入れを食べないということは
神に逆らうにも等しかった我が卓球部ではそれは許されざる行為であった。
泣く泣く食べた・・・・
きっとそのことがトラウマとなって、今でも「あんこ」嫌いが
延々と続いているに違いない(笑)



とにかく毎週日曜日はほとんど試合か練習試合だった。
試合で思い出すのが、争奪「台取り合戦」。今は笑えるだけなのだが
当時は真剣そのものだった。どういうことかというと、試合に行くとなると
交通手段は当然電車。しかも都会のように一時間に何本も電車が出ているわけがないため
ライバル校も、みんな同じ時間の列車に乗り合わせる。試合会場にはもう卓球台が並べてある。
そう、試合が始まる前の練習をする為の台を確保しなければいけないのだ。

こうなると、いかに早く電車を下り他の学校より抜け駆けして台を確保するかに尽きるのである。
私達はひたすら走った。日頃のトレーニングの成果を発揮する絶好の場所だった(笑)
先輩の荷物を持ち、自分の荷物を持ちクーラーBOXを肩にかけひたすら走る、走る。
会場が近くなると走る組と荷物持ち組に分れ効率よく動く。どうにか先輩の人数分の台を
確保できれば、それで当然。誉めてもらえるわけでもなく、当たり前。
取れなかった時?試合後の「正座お説教」に決まっている(笑)

一年生はそんなふうにして、あっという間に過ぎた。しかし、この間も
練習は半端じゃなかった。私は、眠い目をこすりながら始発電車で通学して、
米沢駅から自転車でダッシュして学校に向う。着いたらすぐ部室へ行き着替える。
軽く学校の周辺を3周ぐらいはしていただろうか。着替えてそのまま教室に行く。
3時間目終了の頃、しっかり早弁をする。お昼にはダッシュで部室に向い、昼練をする。
練習終了後は、お昼を食べる。ん?さっき食べたって?この頃は一日6食ぐらい食べてました。
でも、消費量が多かったので全然太らなかった(笑)

午後の授業が終るとクラスのみんなに謝りながら、掃除をせずに足早に部室へ。
先輩より早く台を並べておかなければ大変なことなのである。
そのまま部活に突入。とりあえず練習が終了するがその後もまた、個人的に
練習する先輩がいればお付き合いするといった具合である。
ほんとに一日中卓球漬けだった。おまけに私は汽車通のため、列車時間が
限られている。私達は終列車と呼んでいたが、だいたいPM8:00ちょっと前
ぐらいの時間だった。家に着くのは毎日9時頃だった。

当然なのだが疲れて勉強どころではない。それなのに「単語テスト」などは毎日あった。
睡眠不足と疲れで、毎日授業中寝ていた(笑)それで、疲労回復していたような気さえする。
たいていは、友達が起こしてくれたりしたが中には奇特な先生がいて、同じ列車で
同じ時間に帰っていて大変さを知っているため、気づいていても時々寝かせたままで
いてくれる先生がいた。これはとてもありがたかった(笑)
古文のH先生「あの時はありがとう。お元気ですか?」



学校へ何しに行っていた?と聞かれたら、真っ先に「部活」と答えられるぐらい
勉強よりは部活ひとすじだった。日々のトレーニングの成果は着々と身体に現れていた(笑)
おかげで、体育の成績だけはすこぶる良くちゃんと5段階評価で5をいただいていた。

基本的に体育の授業などと言ってもお遊び程度だった。
私の担当の体育教師は、ちょっとお年を召していたこともあって、体育委員の私に
「さ〜て、今日はなにする〜?」と聞く人だった(笑)
私は数人の希望を集めて「せんせ、今日はバスケ!」ってな具合だった。
しかし、どうしても避けては通れないというかカリキュラム上やらなければいけないものが
あったらしくてそのひとつが、クラスのみんなには不評だったが
私は結構好きだった「跳び箱」。

学校には確か8段までしか設置されていなくてそれ以上は残念ながら
Try出来なかったが身長の低い私は、8段ぐらい飛ぶと身体がふわ〜っと
宙に浮いているような錯覚を覚えた。その浮遊感が、何とも言えず好きだったのだ。
やっぱりちょっと異常かしら?(笑)

それともうひとつ我が高校はスポーツテスト(体力テスト)というものが年2回、
春と秋に行われていたが、50m走・1000m走・走り幅跳び・ボール投げ
斜めけんすい等などを総合評価するものだった。かなりのハードトレーニングで
持久力だけは抜群になっていたこともあり、誰もが嫌がる1000m走は、
結構好きな種目だった。当然のことながら、我が卓球部の仲間たちは
貼り出されたスポーツテストの結果の上位にみんな食い込んでいた。
あぁ。。。これが勉強の結果だったら今頃違った人生を歩んでいたかもしれない(笑)



一年間を通して覚えているだけでも《市民大会・ニッタク杯》《山形新聞・YBC杯》《高体連》
《国体予選》《あやめ杯》《オールジャパン》《新人戦》《菊まつり杯》
《ダリヤ杯》《YSP杯》《設楽杯》《冬季リーグ》《強化リーグ》《北福島大会》等など
そこに、予選で勝つと県大会があったから実際はもっともっと多かったと思う。
その他に、練習試合や他の大会の審判依頼が来るのでほとんど休みはなかった。

しかし、我が卓球部にはひとつだけ信じられない面白い休みがあった。
基本的には、試験期間中は部活は停止になるのだが一日ラケットを持たないと、取り戻すのに
三日はかかると言われていたため、みんな自主トレをやっていた。
それにもかかわらず、必ず休みになる日があった。それは、長期の「夏休み」や「春休み」の
一番最後の日。通称「宿題休み」と言っていた。
当然の如く、毎日部活と合宿に明け暮れているので宿題がおろそかになっているのは目に見えている。
ということで、ラストスパートをかけるための休みだったのだ。今考えると、ちょっと信じられないような
休みなのだが、当時はこの休みのおかげで、かなり助かっていたものである。

審判要請を受けて主審・副審などをする大会もあったが一番よく覚えているのが
「ろうあ者大会」だった。今はこういう呼び方をしているかどうかはわからないが、
当時はこう呼んでいた。文字通り「耳の不自由な方・ことばにハンディを持った方」の県大会だったのだが、
競技中は勿論ほとんどが手話での会話なので一種独特の雰囲気だった。

最初はなんとなく指定された審判をこなしていただけだったが
ある男性のプレーに目が行くようになった。すごく、ひたむきに一生懸命にプレーする
その彼を見ていて私ともうひとりの友人は、自分の審判がない時は、その彼を
応援するようになっていた。とうとう彼は決勝まで進出した。

その時点で、私と友人はどうしてもその感動を彼に伝えたくなった。
周りにいた手話の通訳で来ていた人をつかまえて「おめでとう」の手話を教えてもらった。
優勝すると信じていたので、「おめでとう!」これしか必要ないと確信していた。
そして、期待通り彼は優勝した。

私と友人は、彼に駆けよって覚えたばかりの「おめでとう」を手話でプレゼントした。
そうすると、彼はニッコリ笑って手話で「ありがとう」を返してくれた。
たったこれだけのことなのに、すごく気持ちが穏やかになった。
そういう雰囲気を持った人だった。Kさん今も続けていらっしゃるのでしょうか?



そんなことを繰り返しているうちに最後のシーズンがやってきてしまった。
そういえば、春の合宿で特筆すべき事件とも言える快挙があった。
合宿も後半にさしかかると、ゲーム方式になってくることが多くその日はダブルスの
ゲームだった。練習だからと言って手を抜くわけではない。
同じチームの仲間とはいえ真剣勝負だった。

私とコンビを組んでいたのはY子。ゲームの相手は、TとS。この二人は中学時から
すでに全国レベルにあり、私達と一緒にチームを作ってからも群を抜いていた。
地区では負けなし・敵なしだったので、練習でも彼女達からセットを取ったことなど一度もなかった。
ところがこの日は、私とY子のコンビネーションが冴え渡り絶好調だった。ミスをしないのである。
TとSは二人ともカットマンだったので、こちらが打っても打っても返してくる。

ラリーの応酬だったが、いつになく絶好調の私達は返されるボールをスマッシュしまくり
ものすごい白熱したゲームとなってしまった。そしてセットを奪ってしまったのである。
これはもう県大会優勝のレベルである。TとSも「凄かった。今迄で一番よかった」と
誉めてくれた。私とY子は、後にも先にもこれが初めての彼女達からの勝利で
かなり舞い上がっていた。私自身も自分の卓球人生の中では、一番
出来のいい心に残る・忘れられないゲームとなった。
きっとY子もそうだと思う。

そして、高体連予選を勝ち抜き県大会へ。事実上はこれが最後の戦いになってしまう。
酒田市が会場だった。最後の団体戦だったが、私達の前には必ず立ちふさがる
壁のような私立の名門J女子高があった。ここはやはりスポーツ名門校にふさわしく
選りすぐりのメンバーを集めてくる。全国レベルの選手も勿論沢山いた。
大会によっては決勝で対戦することもあったが、前の大会で第2シードが取れなかったりすると、
準決勝でぶつかってしまう。最後の大会もやはりそうだった。

すでに全国ベスト8の選手もいたチーム。さすがにお手上げでした。
団体戦はそこでお終い。東北大会も出場出来なかった。残るは個人戦なのだが、地区予選で
すでに敗退していた私は他のメンバーの応援に余念がなかった。
特に前述していたTとSは、順調に勝ち上がり意地と力のぶつかりあいとなった。
そして宿敵J女子高からも、優勝候補と目されていたY高のペアからも勝利をもぎ取
りインターハイ出場の切符を手にした。TとSも最高の試合をしたと思う。
見ていてゾクゾクするほどだった。
もしかしたら、自分が勝った時よりも嬉しかったかもしれない。

そして私は短い夏と短い卓球生活にピリオドを打った。あれ以来、就職してから
何度か大会に出場したりもしたがどうも、あの時のような気力は甦らなかった。
たぶん、高校生活で私の卓球熱は燃焼し尽くしてしまったのだと思う。
あれほどまでに、燃えられたのはいったいなんだったのだろう?
今でも時々ふと不思議に思うことがある。

1999年・記