DANCEの扉 





私は幼少の頃から小学校の高学年ぐらい迄
母親の影響で、週に一度「モダンバレエ」のレッスンに通っていた。
母親は昔「新体操」の経験があったらしかったが、現在の体型からは
私はあまり信用していなかった(笑)。が、ある日古いアルバムを見せられそれが
事実だったことに驚愕する(笑)。今の母からは想像もつかない姿がそこにあった。
楽々と開脚ポーズで、笑みを浮かべ今で言うレオタード姿で
写真におさまっているのである。しかも賞状などを手に持って。。。

そんな経歴があることから、娘にはバレエを!という思いがあったのだろう。
私の住んでいる田舎町にバレエスクールなどは当然あるわけもない。
しかし、お隣の米沢市から週に一度先生が出張してくるレッスンの日があった。
勿論、いの一番に母が申し込んだのは言うまでも無い。
元々、母の血筋を受け継いだか身体の柔軟性はかなりのものだったらしい。
自分でも、そのスクールは楽しく通えていた。
踊る事が好きになった始まりは全てそこだったように思う。

塾通いはあまり好きではなかったが、事このモダンバレエに関しては
結構続いた方である。何度か発表会なるものにも出てお遊戯に
毛が生えたような踊りを踊った覚えがある。
発表会の時のメークや衣装が当時の私には楽しみでもあった。
ただし、向上心が無かった当時の私は、友達と遊ぶ事の方が
楽しくなり、やがてスクールを辞めてしまう。

スクールの先生は母に「もったいないですね。才能があるのに・・」
と言ったそうで、母はかなり悔しがっていたがそんなものは社交辞令に決まっている。
でも、万が一それが本心だったら・・・あの熊川哲也と踊っているのは・・私だったかも・・
すいません・・・かなりキツイジョークです(笑)これは、張り倒されそうです(爆)

その後、中学に入ったら「新体操」をやりたいと思っていた。
ところが、大誤算。こんな田舎の中学に「体操部」はおろか「新体操部」などあるわけがない。
こうして、私のバレリーナの道はあえなく閉ざされてしまうのである(笑)

しかし、神は我を見捨てなかった。
高校は女子だけの為、体育の授業の他に週に一度「DANCE」の時間が
カリキュラムに組まれていた。そこでの、DANCEはというと・・・なんと「創作DANCE」であった。
運動会などで発表するDANCEを創作するのが主だった。
先天的に踊る事が好きらしい私は、創作だろうがなんだろうが踊れる喜びを感じていたため、
グループでもいつも振付を考える担当であった。

たかが、創作DANCE。されど創作DANCE。曲に合わせて踊れれば、要するに満足だったのだ。
高校生の時に振り付けた曲でのお気に入りは「夢のカリフォルニア」だった。



さて、高校三年間はフォークダンスと創作ダンスで終ったかのように思えるが
実はこの間にDISCOブームが起きるのである。
ジョン・トラボルタ主演の「サタデーナイトフィーバー」
当然のようにDISCOへ・・・と行きそうなものだが・・・
悲しいかな、こんな田舎にそんな気の利いたものがあるわけなどなく、
踊り好きな友人と休み時間に教室の中で音楽をかけ、周囲の迷惑を余所に
振り付けを考えて踊っていた。よく踊ったのは「恋のナイトフィーバー」と
「ハローMr.モンキー」時代がモロわかってしまいそうだが(笑)

また、丁度原宿のホコ天がブームだったことも手伝って、一部の友人が米沢市内の
川原の河川敷でホコ天の真似事をはじめた。オールディーズ中心の曲で
踊っていたようだ。さすがに私はそこには行かなかった(^^;)

時は流れて花の短大生活。
上京した私は、とにかくDISCOに行きたくて仕方なかった。
DISCOに行くためにバイトをしていたと言っても過言ではなかった。
よく行ったのは渋谷の「スターウッズ」や新宿の「ニューヨークニューヨーク」
実は名前もよく覚えていないのだが(笑)確か、こんな名前だったと思う。
六本木にも行ったが、こちらはなんだか自分には合わなかった。
幸い仲のいい友人も踊り好きだったのでひたすら踊りまくっていた。

平行して短大では保育科だったため必修単位の中に「音楽リズム」なるものがあった。
これは、お遊戯プラスミュージカルのようなもの。音楽に合わせて踊れるのだから
お遊戯でもなんでも私は嬉しかった。みんな照れがあるのだろうが、あまり
身体を動かさないので、私は特に目立ってしまったようだ。(^^;)

音楽リズムは2クラス合同だった。 隣のクラスにやはり楽しそうに踊る人がいた。
踊る時のスマイルも完璧。聞いてみると、やはり・・「スクールメイツ」で
踊っているとのこと。当時TVを見ていると、アイドル歌手の後ろで
スクールメイツスマイルで踊っている彼女を見る事が出来た。

「音楽リズム」の中で最大のイベントが2年の時の発表会である。
十数人のグループ毎に分かれて簡単な創作ダンスを披露する発表会である。
選曲・振り付け・衣装など全部自分達で決定できる。ここでもやはり、振り付けの担当に
なってしまっていた私だった。テーマは「真夜中の子ども部屋」おもちゃ箱から飛び出てきた
おもちゃ達が夜中にダンスパーティーを繰り広げるといったイメージで作り上げた。

発表会は大成功に終りグループメンバーみんなで打ち上げに
DISCOへ繰り出した。DISCO初体験の友人もたくさんいたが
発表会終了という開放感から、みんなで楽しく踊れた。
雰囲気もよくなってきた頃発表会で選曲した曲が流れ出した。
気分は最高潮だった。その曲は♪Can't take my eyes off of you
 〜君の瞳に恋してる〜♪だった。



かくして「唄って踊れる幼稚園のせんせ・保母さん」を
目指していた私は、山形へ戻ってくるが何故か普通の会社に就職してしまう。
入社するなり仕事が忙しくなり、趣味の時間も無くなって
しばらくDANCEとは縁遠い生活をしていた。

ある年、眠っていたものが呼び覚まされるような映画を見た。
ジェニファー・ビールスの「フラッシュダンス」だった。
映画の中のダンスシーンがカッコよ過ぎて、すごく踊りたくなった。
ダンススタジオを探したが、やっぱり田舎の悲しさでなかなか近くにはスタジオが無かった。
たまたま、町の会館に出張で週一回来てくれる講師がいると聞きつけ、そこにしばらく
通う事にしたがそれは大失敗だった。町の商工夫人部のご婦人方がほとんどの
集まりだった。当然、話題にも入れず自分の求めていたものとも
全く違っていたのですぐに行かなくなってしまう。

そしてまたしばらくのブランク。
一時期、山形でジャズダンスコンクールやジャズダンスフェスティバル
といった企画物が行われた年があった。県内の主だったダンススクールの
合同発表会といったものやコンクールとして競うものまでいろいろだったが
そのコンクールで優勝・準優勝した人の踊りにまたも魅せられてしまう。
なかなか、踏み出せないでいたのだがここでいよいよ
目を覚ましたかのように私の活動が始まった。

またまた踊りたくなった私はスタジオを探していた。
当時の同僚にお兄さんの親友がスタジオをやっていると聞き、紹介してもらい
そこに通い出す事になる。そのスタジオの主宰者は、とても個性的で面白く、
自分の信念を持っている人だった。ジャズダンスの創始者
ルイジ・ファチュート 
に魅せられ、単身ニューヨークへ渡りルイジを肌で感じてきたひとである。
私もまた、しばらくはそこのスタジオでお世話になることになる。



ルイジスタイルを中心にした そのスタジオは
《ダンスシアターコンパニアマリカ東北》といいその主宰の先生は超個性的な人物だった。
彼の偉業を書き連ねると、一冊の本が出来るのでは?と思うほどである(笑)。

どこが、個性的かと言うと例えば、今では珍しくもないが当時は誰一人やったことのない
真夏に米沢市の中央公園でストリートパフォーマンスをやってみたり
ジャズダンスで米沢市の「上杉祭り・新調パレード」に参加したり
真冬に白鳥と同化しようと、川原で白鳥に成りきったり・・・
とにかく、何もしないで人を笑うよりは、何かをやって笑われた方がましだという信念のもとに
ストリートパフォーマンスを繰り返している人だった。

スタジオの年齢層は幅広くレッスンも様々だったが、私は週に一度行ければ
いい方だったので、週に何度もレッスンに来ている人達のコンビネーションには
ついて行く事が出来なかったが先生の方針は、踊りたいように踊ってくれていいから
ということだったので、振りを覚えられなくても全然平気で、
エクセサイズなどをマイペースでやらせてもらっていた。

丁度その年は、同じぐらいの年代の人がスタジオに多く通い始めたので、
すぐに仲良くなり一緒にSTEPをふんでいた。しかもその年は、スタジオも
精力的な活動をやっていたため私も、夏祭りのイベント会場などに借り出されて出演していた。

その年の秋には、練習不足にもかかわらず、恐れ多くもスタジオの発表会にも
出演してしまい今思うと、かなり恥ずかしい。。。(#^^#)
でも、いい思い出でもある。
思い出の曲は ♪抱きしめてTONIGHT♪だった。



しばらくはそのスタジオに通って、マイペースで身体を動かして
ストレスを発散させていた。しかし、勤務先の仕事の関係で出向命令が出て
突然長距離通勤を強いられてしまった。
最初のうちは、気合で乗りきろうとスタジオに通っていたのだが冬場になると、
出向先とスタジオが反対方向な為かなりの負担になってきた。

こうなると、踊ることでストレスの解消どころか身体が疲れて、日々の生活にも
支障が出てきてしまう。ということで、仕方なくお休みする事になった。

しばらくDANCE熱も冷めてしまい物足りない毎日を送っていると
ある日友人が朗報を運んできてくれた。「期間限定で町の体育館で
【エアロビ教室】あるんだって〜一緒に行かない?」
二つ返事だった「行く行く〜」

エアロビクスは、前のスタジオでほんの少しかじった程度で、基礎は出来ていない。
自分的にも、フリーで踊れるJAZZ DANCEの方が性に合っていることもあって、
食わず嫌いだったところもあったのだが動けるのであれば、なんでもいいやという
気持ちもあって、その教室は楽しく参加できた。

そのうち、その中の一人が有志で毎週やらないか?と話しを持ちかけてくれた。
週一回で参加者はほとんどが主婦だし時間も一時間程度で、
負担にならないのでしっかり定着した。

残念ながら、今は家庭の事情でその週一回も行けない状態にあるのだが
通える状態になったら、今までの分を爆発させるべく踊りまくりたいと思っている。

1999年・記